俳句

松尾芭蕉

松尾芭蕉は俳句を知らなかった?

松尾芭蕉の俳句松尾芭蕉の時代には、「俳句」の言葉は一般的ではなかった。芭蕉が親しんでいたのは俳諧(の連歌)で、俳諧仲間が、決まりに従って句を詠み連ねていくものだった。その中では、発句と呼ばれる一句目が特に注目され、自立性を高めて単独で味わう風潮が生まれてきた。そこに芸術性を意識させたのが松尾芭蕉である。芭蕉はそれを「俳句」とは表現せず、当時の慣習に従って「句」とか「発句(ほっく)」と呼んでいた。

▶ 松尾芭蕉の年譜

松尾芭蕉とはどんな人? その功績とは

松尾芭蕉は元禄文化を代表する文人で、「俳聖」と呼ばれ、「俳句の祖」と呼ばれることもある。遊戯性の高い俳諧が、芭蕉を境にして芸術性を持つようになり、「発句」単体で味わう機会が増え、俳句へと変化していった。味わい方や理念の変化にも関わらず、芭蕉句は、現代までも絶大な影響力を保ち続けている。

松尾芭蕉の俳風は「蕉風(正風)」と呼ばれ、「不易流行の理念」「匂付の手法」「景情一致の作風」を確立。「かるみ」の境地へと導いた。その理念は紀行文にも色濃く表れ、元禄2年(1689年)の「おくのほそ道」は日本文学の金字塔となった。松尾芭蕉の俳句

松尾芭蕉が絶大な支持を得ている理由は、上記のような革新性とともに、優れた弟子に恵まれたことも一因である。蕉門十哲と呼ばれる高弟をはじめ、全国に無数の共鳴者がいた。にもかかわらず生活は質素で、自らを「深川八貧」として、深川に住む8人の貧乏人のひとりに数え上げていた。

▶ 蕉風を理解する上での最重要資料「去来抄」
▶ 松尾芭蕉の紀行文

松尾芭蕉の俳句 15選

江戸時代の俳諧師でありながら、不動の人気を誇る俳人・松尾芭蕉。代表句を選ぶとしても、20選30選という枠では足りやしない。ここでは、時代を支えてきた名句を中心に15句をピックアップし、詠まれた順にまとめてみた。

野ざらしを心に風のしむ身かな

貞亨元年(1684年)秋からはじまった旅で詠まれた句。芭蕉初の紀行文となる「野ざらし紀行」のタイトルにもなった。
⇒ 松尾芭蕉の俳句①

古池や蛙とびこむ水の音

貞享3年(1686年)閏3月刊行の「蛙合」に初出の句。「不易流行」の端緒となった、松尾芭蕉の代表句。
⇒ 松尾芭蕉の俳句②

花の雲鐘は上野か浅草か

貞亨4年(1687年)に芭蕉庵で詠まれた。この時の芭蕉は病床にあって、花の盛りを逃してしまうことの焦りが詠み込まれている。
⇒ 松尾芭蕉の俳句③

旅人と我名よばれん初しぐれ

貞享4年10月11日(1687年11月15日)の餞別会での句。父の三十三回忌の法要参列の旅に出て、紀行文「笈の小文」をまとめた。
⇒ 松尾芭蕉の俳句④

さまざまのこと思い出す桜かな

貞享5年(1688年)に故郷の伊賀に帰って、むかし仕えて早世した主人を思い出しながら詠んだ句。芭蕉を俳諧の道へと導いた人でもあった。
⇒ 松尾芭蕉の俳句⑤

夏草や兵どもが夢のあと

「おくのほそ道」の旅の途上、元禄2年5月13日(1689年6月29日)に奥州平泉で、源義経を思って詠まれた。
⇒ 松尾芭蕉の俳句⑥

五月雨の降り残してや光堂

元禄2年5月13日(1689年6月29日)に、「夏草や」の句を詠んだ後に中尊寺へと足をのばし、覆堂の中の金色堂(光堂)を詠んだ。
⇒ 松尾芭蕉の俳句⑦

閑さや岩にしみ入る蝉の声

「おくのほそ道」の旅の途上、元禄2年5月27日(1689年7月13日)に山形の立石寺で詠まれた。芭蕉の「寂」がよく表れた名句である。
⇒ 松尾芭蕉の俳句⑧

荒海や佐渡によこたふ天河

元禄2年7月7日(1689年8月21日)「おくのほそ道」の旅の途上、出雲崎で詠まれた。情景描写の真偽が話題になる名句。
⇒ 松尾芭蕉の俳句⑨

行く春を近江の人と惜しみける

元禄3年(1690年)3月の句。「おくのほそ道」の旅あと、膳所の義仲寺無名庵に身を寄せた。「動く句」論争が巻き起こったことでも知られる。
⇒ 松尾芭蕉の俳句⑩

物いへば唇寒し秋の風

元禄4年(1691年)に詠まれたと考えられている。現在では、「口は災いの元」のような慣用句として用いられている。
⇒ 松尾芭蕉の俳句⑪

梅が香にのつと日の出る山路哉

元禄7年(1694年)春の句。「俳諧炭俵集」の冒頭を飾る名句で、「かるみ」を見事に体現している。
⇒ 松尾芭蕉の俳句⑫

菊の香や奈良には古き仏たち

元禄7年9月9日(1694年10月27日)に、伊賀から奈良に入って詠まれたもの。このひと月後に亡くなるとは、思いもしなかっただろう。
⇒ 松尾芭蕉の俳句⑬

秋深き隣は何をする人ぞ

元禄7年9月28日(1694年11月15日)、亡くなる14日前に大坂で詠まれた。現代では、都会の孤独をうたった慣用句にもなっている。
⇒ 松尾芭蕉の俳句⑭

旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる

元禄7年10月8日(1694年11月24日)に「病中吟」として大坂の南御堂で詠まれた。芭蕉の辞世ともされる。
⇒ 松尾芭蕉の俳句⑮

松尾芭蕉の俳句
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松尾芭蕉関連施設

▶ 江東区芭蕉記念館
1917年(大正6年)9月の台風による高潮で、松尾芭蕉が深川芭蕉庵に置いてあったと見られる芭蕉遺愛の石の蛙が出土し、東京市は「芭蕉翁古池の跡」を指定。1981年(昭和56年)4月19日、江東区はその近くに芭蕉記念館をオープンさせた。以降、真鍋儀十翁が寄贈した芭蕉及び俳文学関係の資料などを展示している。

▶ 関口芭蕉庵
神田上水の改修工事を請け負った芭蕉が、1677年(延宝5年)から1680年(延宝8年)までの4年間住んだとされる現在の東京都文京区に、芭蕉33回忌に「芭蕉堂」を建てたのが元になっている。当時の建物は戦災などで焼けてしまったが、芭蕉の真筆の短冊を埋めて作られた「さみだれ塚」などが残る。

▶ 芭蕉翁記念館
松尾芭蕉の出生地である三重県伊賀市に、松尾芭蕉の真蹟などを展示する資料館がある。近くには、芭蕉が幼少期を過ごした生家と、「貝おほひ」を執筆した釣月軒があり、見学可能となっている。