子規を師とした内藤鳴雪
元日や一系の天子不二の山
常盤会の寄宿舎監督であったことから、常盤会舎生達が鳴雪の古稀を寿ぎ、大正9年、松山市道後公園に句碑を立て、除幕式に招かれた。事前に東京で催された祝賀の演能では、「自然居士」のシテを高浜虚子が、ワキを河東碧梧桐が舞った。
▶ 内藤鳴雪の俳句
1847年 | 弘化4年 | 旧暦4月15日、伊予松山藩の上級武士内藤房之進と八十の長男として、藩の江戸中屋敷に生まれる。(*1) |
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1886年 | 明治19年 | 東京に学ぶ松山の子弟の寮である常盤会寄宿舎監督となる。 |
1892年 | 明治25年 | 正岡子規を俳句の師とし、互選句会「椎の友」に加わった。 |
1897年 | 明治31年 | ホトトギス選者。 |
1923年 | 大正12年 | 大阪市西区京町堀の商家の娘・阿波野貞の婿養子となり阿波野姓となる。 |
1924年 | 大正13年 | 「ホトトギス」課題選者に就任。 |
1925年 | 大正14年 | 肋膜炎を病み、軽い脳溢血で臥床。 |
1926年 | 昭和15年 | 2月20日、麻布笄町(現在の西麻布四丁目)の自宅で没。79歳。 |
*1 | 幼名助之進、元服して師克(もろかつ)、のち素行(もとゆき)。俳号は、鳴雪のほかに南塘・破蕉・老梅居。「鳴雪」は、「成行き」の当て字。 |
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