俳句

松本たかし

まつもとたかし

只管写生を唱えた松本たかし

1906年(明治39年)1月5日~1956年(昭和31年)5月11日。東京市神田区猿楽町(東京都千代田区猿楽町)の能楽師の家に生まれる。病で能楽師の道を断念し、高浜虚子に師事。「ホトトギス」では4S(山口誓子阿波野青畝水原秋桜子高野素十)以降の代表的な作家となった。「笛」創刊・主宰。

虚子に薫陶をうけ、その教えを「只管写生(しかんしゃせい)」として、写生に根差した格調高い俳句を生んだ。それは、「たかし楽土」とも呼ばれる。また、能楽への思いは捨てがたく、その俳句のいたるところに、能に通じる美意識が散りばめられている。
松本たかしと同じく、芸術で大成した兄弟を持つ川端茅舎とは句兄弟と言われ、句風にも通じるものがあった。茅舎は松本たかしを「生来の芸術上の貴公子」と呼んでいる。

▶ 松本たかしの俳句


 松本たかし年譜(5月11日 牡丹忌)
1906年 明治39年 1月5日、東京市神田区猿楽町(千代田区猿楽町)生まれる。(*1)
1911年 明治44年 能の修業を始める。
1920年 大正9年 肺尖カタルと診断され、静岡で療養中に俳誌「ホトトギス」と出会う。
1922年 大正11年 父の能仲間の句会「七宝会」に参加。
1923年 大正12年 高浜虚子に師事。
1926年 大正15年 神経衰弱の療養を兼ねて鎌倉市浄明寺に移住。「ホトトギス」に4句入選し、これを機に能役者になることを諦め俳句に専心。
1929年 昭和4年 「ホトトギス」巻頭。ホトトギス同人。
1931年 昭和6年 川端茅舎高野素十と親交を結ぶ。
1935年 昭和10年 父が死去して生計が傾き、虚子に仕事をまわしてもらい糊口をしのぐ。
1945年 昭和20年 岩手県稗貫郡へ疎開したが、10月に上京。
1946年 昭和21年 島村茂雄の援助をうけて「笛」を創刊・主宰。
1948年 昭和23年 能の師であった宝生九郎をモデルにした小説「初神鳴」を発表。(*2)
1954年 昭和29年 第四句集「石魂」にて第5回読売文学賞。
1956年 昭和31年 2月、脳溢血を起こして句作できなくなる。5月11日、心臓麻痺により久我山の自宅で死去。50歳。戒名は青光院釈一管居士。
*1 宝生流能役者の家に父・松本長の長男として生まれる。本名は孝。弟は、能楽師の松本惠雄。
*2 1958年に伊藤大輔監督によって映画化。