与謝蕪村

よさぶそん

天明の中興五傑
正岡子規によって再評価された俳人

与謝蕪村の俳句享保元年(1716年)~天明3年12月25日(1784年1月17日)。摂津国東成郡毛馬村(大阪府大阪市都島区)に生まれる。名は長庚(ちょうこう)。早野巴人(夜半亭一世)に師事し、夜半亭二世となる。別号に、宰鳥・三果東成(さんかとうせい)など。画家としても知られ、春星・謝寅などの画号がある。「蕉風回帰」を唱え、「離俗論」を句に適用。天明調の俳諧を確立させた中心人物で、江戸俳諧中興の祖とも言われる。

萩原朔太郎に「郷愁の詩人」と評されたが、故郷を出てからは一度も毛馬村に帰っていないという。
安永6年(1777年)、「洛東芭蕉庵再興記」を納めた京都金福寺に芭蕉塚をつくり、「我も死して碑にほとりせむ枯尾花」と詠む。天明3年12月25日未明、持病の心臓疾患で死去すると、遺言に従って、その金福寺に葬られた。辞世は「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」。この句に「初春」と題せよと言って、息をひきとったという。

▶ 与謝蕪村の句

 与謝蕪村年譜(旧暦12月25日 蕪村忌・春星忌)
1716年 享保元年 摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれる。(*1)
1736? 元文年間 江戸に下り、早野巴人に俳諧を学ぶ。
1742年 寛保2年 絵を宿代としながら東北の松尾芭蕉の足跡を辿る。蕪村の号を用いる。
1744年 寛保4年 「歳旦帳」で初めて蕪村の号を用いる。
1758年 宝暦8年 京都に居を構え、与謝を名乗るようになる。
1770年 明和7年 夜半亭を継承。夜半亭二世に。
1784年 天明3年 旧暦12月25日、京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で死去。享年68。墓所は京都市左京区の金福寺。(*2)
*1 本姓は谷口、あるいは谷。名は信章。通称寅。「蕪村」とは陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。別号に宰鳥・夜半亭。画号は春星・謝寅など。豊かな農家(漁業者)に生まれたが、若くして両親と家財を失う。
*2 死因は心筋梗塞と見られる。辞世「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」