服部嵐雪

はっとりらんせつ

蕉門十哲の高弟で「門人に其角嵐雪有り」と評される
江戸俳壇で最大勢力となる雪門の祖

承応3年(1654年)~宝永4年10月13日(1707年11月6日)。淡路国三原郡(兵庫県南あわじ市)出身。温和な人物として知られるが、若い頃は悪所通いを重ね、遊女であった烈女を妻にした。妻を詠んだ句に、「不産女の雛かしづくぞ哀れなる」。
その烈女は、猫を可愛がるあまり、人間以上の敷物器物を与え、忌日にも生魚などを与えていた。そのため嵐雪がその猫を遠方に隠してしまうと、烈女が「猫の妻いかなる君のうばひ行く」と詠んで半狂乱になった。隣人が嵐雪の謀だと妻に告げると、夫婦喧嘩になり、門人が和解させた。それを「睦月はじめの夫婦いさかひを人々に笑はれて」と端書して「悦ぶを見よや初音の玉ははき」。

「草庵に梅桜あり、門人に其角嵐雪有り」(1692年)と評するほど、芭蕉から高く評価されていたが、「かるみ」の見解にずれがあり、対立することも。
「おくの細道」の旅には送別吟を贈らなかったが、元禄7年(1694年)の芭蕉の訃報に触れるや、江戸で芭蕉追悼句会を開き、芭蕉が葬られた近江の義仲寺に向かった。そこで「この下にかくねむるらん雪仏」の句を遺す。
辞世は「一葉散る咄ひとはちる風の上」。

▶ 服部嵐雪の俳句

 服部嵐雪年譜(旧暦10月13日 嵐雪忌)
1654年 承応3年 淡路国三原郡小榎並村(兵庫県南あわじ市榎列小榎列)に生まれる。(*1)
1675年 延宝3年 松尾芭蕉に入門。
1686年 貞亨3年 仕官の道を諦めて俳諧に専念。(*2)
1687年 貞亨4年 烈女を妻とする。
1688年 貞亨5年/元禄元年 「若水」を刊行。宗匠となる。
1690年 元禄3年 「其帒」を刊行。
1694年 元禄7年 「露払」の撰で蕉門との対立を生じ「或時集」を刊行。
1695年 元禄8年 芭蕉の一周忌追善集「若菜集」を刊行。
1699年 元禄12年 烈女が亡くなる。
1703年 元禄16年 大火で焼け出され雪中庵を再建。
1707年 宝永4年 旧暦10月13日死去。享年54。
*1 父・服部喜太夫高治は常陸麻生藩主・新庄直時などに仕えた下級武士。長男として生まれ、幼名は久馬之助、久米之助。通称は孫之丞、彦兵衛など。嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、寒蓼庵、玄峯堂、黄落庵などの別号を持つ。(湯島天満宮の鳥居に服部久米助と彫られたことから、江戸湯島との説もある。)
*2 江戸に出て仕官していた頃は彦兵衛と名乗り、「武士の足で米とぐ霰かな」の句がある。