夏目漱石(なつめそうせき)

愚陀仏の俳号を持つ夏目漱石

鐘つけば銀杏散るなり建長寺

「海南新聞」1895年9月6日号初出。2カ月後の11月8日に同紙上で発表された正岡子規の代表句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の下敷きとなったと言われている。

▶ 夏目漱石の俳句

 夏目漱石年譜(12月9日 漱石忌)
1867年 慶応3年 2月9日(旧暦1月5日)江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)に生まれる。(*1)
1883年 明治16年 大学予備門受験のために松山中学を退学し、東京へ。
1884年 明治17年 東京大学予備門予科入学。
1889年 明治22年 1月に正岡子規との親交が始まり、子規の「七草集」の批評で初めて「漱石」の筆名を用いる。
1890年 明治23年 帝国大学文科大学英文科入学。
1893年 明治26年 高等師範学校の英語教師となる。
1895年 明治28年 松山中学に赴任。
1896年 明治29年 熊本県の第五高等学校講師となる。貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚。
1898年 明治31年 俳句結社紫溟吟社の主宰になる。
1900年 明治33年 イギリスに留学。
1903年 明治36年 第一高等学校講師。東京帝国大学文科大学講師を兼任。
1904年 明治37年 明治大学講師を兼任。
1905年 明治38年 1月から「ホトトギス」で「吾輩は猫である」の掲載がはじまった。
1910年 明治43年 6月、胃潰瘍のため入院。8月、療養のため修善寺温泉に移るも一時危篤状態に。
1916年 大正5年 12月9日、胃潰瘍により死去。50歳。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園。戒名は文献院古道漱石居士。
*1 父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれる。本名、夏目金之助。