いけにしごんすい
木枯の言水
慶安3年(1650年)~享保7年9月24日(1722年11月2日)。奈良出身。名は則好。通称は八郎兵衛。別号に紫藤軒(しどうけん)・風下堂(ふうかどう)。松江重頼・高島玄札に師事。
当初は談林派の俳人として活躍し、のちに蕉風に傾倒。40歳頃に詠んだ「木枯の果はありけり海の音」が評判を呼び、「木枯の言水」と呼ばれた。73歳で亡くなるが、「海音集」(金毛斎方設編1723年)に「我木枯のなくは人生のあらまし二つの海のこころも述たり此句を辞世とすべし」との言水の言が載る。ゆえに、この木枯の句を辞世とし、墓碑にも刻まれる。
▶ 池西言水の俳句
1650年 | 慶安3年 | 奈良に生まれる。(*1) |
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1666年 | 寛文6年 | 法体して俳諧に専念。 |
1676年 | 延宝4年 | 江戸暮らしをはじめ、松尾芭蕉とも交流。 |
1678年 | 延宝6年 | 第一撰集「江戸新道」を編集。 |
1682年 | 天和2年 | 京都へ移住。 |
1690年 | 1690年 | 「新撰都曲」を編集。 |
1722年 | 享保7年 | 旧暦9月24日(1722年11月2日)死去。72歳。 |
*1 | 曽祖父の千貫屋久兵衛は、奈良大年寄を務めた家系。 |
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