石田波郷

いしだはきょう

人間探求派と呼ばれ境涯俳句を詠む

1913年(大正2年)3月18日~1969年(昭和44年)11月21日。愛媛県温泉郡垣生村(愛媛県松山市)の農家に生まれる。本名は哲大(てつお)。五十崎古郷水原秋桜子に師事。古郷から「波郷」の号を与えられた。人間探求派と呼ばれる。結核を患ったのを機に、自らの生活を題材とする境涯俳句を詠みはじめる。「鶴」創刊・主宰。
辞世は「今生は病む生なりき烏頭」。

▶ 石田波郷の俳句

 石田波郷年譜(11月21日 忍冬忌・風鶴忌・惜命忌)
1913年 大正2年 3月18日、現愛媛県松山市に生まれる。(*1)
1928年 昭和3年 県立松山中学校4年生の時、同級の中富正三(後の俳優・大友柳太朗)に勧められ俳句をはじめる。俳号は「山眠」「二良」。
1930年 昭和5年 五十崎古郷を訪ね指導を受ける。この際に「波郷」の号を与えられる。
1932年 昭和7年 「馬酔木」初巻頭を機に上京。
1934年 昭和9年 明治大学に入学(*2)。「馬酔木」編集に携わる。
1937年 昭和12年 句誌「鶴」を創刊、主宰となる(*3)。
1939年 昭和14年 「俳句研究」8月号座談会への出席をきっかけに、加藤楸邨、中村草田男らとともに人間探求派と呼ばれる。
1944年 昭和19年 左湿性胸膜炎を発病。
1946年 昭和21年 「現代俳句」を創刊。
1947年 昭和22年 神田秀夫、西東三鬼らと「現代俳句協会」を設立し、代表となる。
1955年 昭和30年 「定本石田波郷全句集」が第6回読売文学賞。
1969年 昭和44年 「酒中花」で第19回芸術選奨文部大臣賞。11月21日、清瀬市の国立療養所東京病院で心臓衰弱のため死去。56歳。墓所は調布市の深大寺。戒名は風鶴院波郷居士。
*1 自作兼小作農の父・惣五郎、母・ユウの次男として生まれる。四男四女の第二子。本名は哲大(てつお)。
*2 1936年中退。
*3 「鶴」は、馬酔木新人会「馬」として1936年に創刊し、「樹氷林」と合併して成った。

石田波郷の俳句哲学

俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打坐即刻のうた也。(「鶴」復刊号1946年)