俳句

富田木歩

とみたもっぽ

重なる苦難の中に俳句を詠んだ富田木歩

1897年4月14日~1923年9月1日。東京市本所区新小梅町(東京都墨田区)出身。最初の俳号は吟波。幼時の高熱のために歩行不能となり、自ら木の足をつくる。それをもとに「木歩」と号す。その俳句は「茜」の新井声風により見出される。原石鼎臼田亞浪に師事。「境涯の詩人」とも「俳壇における石川啄木」とも称せられる。関東大震災で死去。

▶ 富田木歩の俳句
▶ 富田木歩の句碑


 富田木歩の年譜(9月1日 木歩忌)
1897年 明治30年 4月14日、東京市本所区新小梅町(東京都墨田区向島)に生まれる。(*1)
1898年 明治31年 高熱のために両足が麻痺。養子に出す約束があったが、破棄された。
1907年 明治40年 隅田川が決壊し、被災。
1912年 大正元年 前年に再び被災して困窮極める中、父が死去。兄が家業の鰻屋「大和田」を継ぐ。
1913年 大正2年 口減らしのために、友禅型彫師のもとへ奉公に出されたが、いじめに遭い、「大和田」に戻る。けれども、居心地が悪く、叔母の家に移る。巌谷小波の俳句に惹かれ、吟波の俳号で俳句をつくりはじめる。
1914年 大正3年 「ホトトギス」8月号に初入選(*3)。原石鼎の指導を仰ぐが、馴染めず、ホトトギスから離脱。
1915年 大正4年 「石楠」の臼田亞浪に師事。本所仲之郷曳舟通りの棟割長屋に移り、駄菓子屋を始める。
1916年 大正5年 「小梅吟社」をつくり、近所の社交場となる。
1917年 大正6年 「茜」の新井声風と出会い、「木歩」の俳号で同人となる。
1918年 大正7年 「茜」1月号が「木歩句鈔」の特集号となる。弟と妹が結核で死去し、駄菓子屋を閉じた。木歩自身も結核に罹る。「石楠」同人。
1919年 大正8年 姉が向島寺島町玉の井に転居し、木歩も母とともに同行。
1920年 大正9年 渡辺水巴の「曲水」に「木歩句集」が掲載される。
1921年 大正10年 貸本屋「平和堂」を開業。
1922年 大正11年 「木歩句集」掲載などの声風と亞浪との確執から、「石楠」退会。思いを寄せていた女性と母が死去。木歩も結核が悪化。声風が「木歩短冊慰安会」で治療費を工面。
1923年 大正12年 姉の旦那が用立ててくれた一軒屋で、「平和堂」を移転させて暮らすようになる。9月1日、関東大震災で焼死。享年26。(*4)
*1 兄が一人、姉が二人いるが、養子に出す予定だったため、一(はじめ)と名付けられた。他に弟一人、妹二人。向島小梅村近辺の大百姓の家柄だったが、父の散財により、富田木歩が生まれた時には貧しかった。学校には通えず、独学で字や俳句を学ぶ。
*2 姉は遊郭に売られ、木歩は玩具造りの内職をする。
*3 「朝顔や女俳人の垣穂より」少年吟波
*4 東京都墨田区向島の隅田公園に、富田木歩終焉の地碑がある。