あさがおに つるべとられて もらいみず
酷評されても生き残る朝顔の代表句
加賀千代女の代表句ともされるものであるが、いつ何処で詠まれたかは分かっていない。後に「朝顔やつるべとられてもらい水」と詠みなおされたとされる。
この句は、正岡子規が「俳諧大要」でこき下ろしたことでも有名であるが、いまだに朝顔の名句としての地位はゆるぎない。
季節は「朝顔」で秋。意味は、「つるべに朝顔のつるがまきついてしまったので、水をもらいに行きました」というような感じ。朝顔のもつ「つる」に「つるべ」を掛けたところに面白みがある。
只思うに、「朝顔につるべとられてもらい水」で観賞すれば、ストレートに面白みが伝わる句ではあるが、情景は固定されてしまう。「朝顔やつるべとられてもらい水」として蔓植物と釣瓶の取り合わせとすれば、落としたつるべの前に、「朝顔」という名の仏の顔が浮かんで見える。ただ、「朝顔につるべとられてもらい水」に見る、駆け抜けるようなひょうきんさは薄れるが…
因みにこの井戸は、普段使いしていない井戸だったのだろう。恐らくは、秋の彼岸の墓参で詠まれた句。
日常使いする井戸ならば、朝顔が枯れるまで毎日もらい水しなければならないという、違った面白さが顔を出す…
▶ 加賀千代女の句
句評「朝顔に釣瓶取られてもらひ水」
正岡子規「俳諧大要」1895年
朝顔の蔓が釣瓶に巻きつきてその蔓を切りちぎるに非れば釣瓶を取る能はず、それを朝顔に釣瓶を取られたといひたるなり。釣瓶を取られたる故に余所へ行きて水をもらひたるといふ意なり。このもらひ水といふ趣向俗極まりて蛇足なり。朝顔に釣瓶を取られたとばかりにてかへつて善し。それも取られてとは最俗なり。ただ朝顔が釣瓶にまとひ付きたるさまをおとなしくものするを可とす。この句は人口に膾炙する句なれども俗気多くして俳句とはいふべからず。
薬王寺の句碑(東京都港区)
港区三田の薬王寺に、朝顔の句碑があると聞いて来た。なかなか探し当てられずにいたが、裏の墓地に廻ると井戸があり、そこの前にあった。なるほど墓地ならば、「朝顔に」でも問題はない。墓参の折に、一度だけ住職に水を借りに行ったということだろう。毎日がもらい水になることもない。
句碑の下部には「朝顔の井戸」とあり、「俳人加賀の千代女の朝顔に云々の句由縁の井戸也 又江戸三大火の厄を免れたるにより火防感応高祖と共に霊水の名聞え高し 敬白」と刻まれている。碑陰には、昭和54年(1979年)3月 二十一世日諦代とある。日諦は、二十一世住職のこと。
この井戸は、文永元年(1264年)の飢饉の折に、日蓮上人によって祈祷された霊水。千代女は、その御利益に授かろうと、諸国歴訪の旅の中で立ち寄ったとされる。その時、釣瓶に巻き付いていた朝顔を見て「草木もこの霊水の徳を慕えるのか」と感銘し、この句が生まれたと伝わる。
ただし、千代女が江戸に入った事があるのかどうかは、分かっていない。
【撮影日:2019年8月12日】
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