正岡子規(まさおかしき)

俳句に革新をもたらした正岡子規

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

「海南新聞」1895年11月8日号初出。子規がこの句を詠んだ日として、全国果樹研究連合会が、10月26日を「柿の日」と制定した。

▶ 正岡子規の俳句

 正岡子規年譜(9月19日 獺祭忌・糸瓜忌)
1867年 慶応3年 10月14日(旧暦9月17日)愛媛県松山市に生まれる。(*1)
1883年 明治16年 大学予備門受験のために松山中学を退学し、東京へ。
1884年 明治17年 東京大学予備門(*2)へ入学。俳句を作り始める。
1887年 明治20年 松山の宗匠・大原其戎主宰の「真砂の志良辺」に俳句掲載。
1889年 明治22年 5月喀血。「子規」と号す。
1892年 明治25年 12月日本新聞社入社。
1893年 明治26年 5月21日「獺祭書屋俳話」刊行。(*3)
1895年 明治28年 4月に従軍記者として遼東半島に渡る。5月、帰国の船中で喀血し、神戸病院に入院。須磨保養院で療養した後、一時松山に帰郷(*4)。10月から27回にわたって新聞「日本」紙上に「俳諧大要」。
1897年 明治30年 1月15日に柳原極堂が創刊した俳句雑誌「ほとゝぎす」に関わる。(*5)
1898年 明治31年 2月から10回にわたって新聞「日本」紙上に歌論「歌よみに与ふる書」を展開。
1902年 明治35年 5月から127回にわたって新聞「日本」紙上に「病牀六尺」。9月19日死去。満34歳。東京都北区田端・大竜寺に埋葬。戒名「子規居士」。
*1 正岡常尚と八重の間に長男として生まれた。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)。のちに升(のぼる)に改める。
*2 夏目漱石・南方熊楠らと同窓。
*3 新聞「日本」明治25年6月26日~明治25年10月20日までの俳話。明治28年9月5日、増補付き再版刊行。俳句革新運動の契機。
*4 8月27日から52日間に渡り漱石の住む愚陀仏庵(松山)に居候した後、東京へ戻る。
*5 「ほとゝぎす」の雑誌名は俳号「子規」に因む。

正岡子規の主な著書

▶ 病牀六尺
明治35年5月5日から死の2日前の9月17日まで、新聞「日本」に127回にわたって連載された随筆集。「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである・・・」