俳句

高浜虚子

たかはまきょし

「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱した巨匠

高浜虚子1874年(明治7年)2月22日~1959年(昭和34年)4月8日。愛媛県温泉郡長町新町(愛媛県松山市)に旧松山藩士の5男として生まれ、祖母の実家の高浜家を継ぐ。本名は高浜清。河東碧梧桐に誘われ、正岡子規に師事。本名の「きよし」から、子規が俳号を「虚子」とする。その後、碧梧桐とは袂を分かつ。
長男の高濱年尾、次男の池内友次郎、次女の星野立子、五女の高木晴子、六女の上野章子も俳人である。

明治31年(1898年)10月、柳原極堂から「ホトトギス」を継承。「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱し、子規亡き後の俳句会を引っ張った。
「春の山屍を埋めて空しかり」と詠み、その二日後、脳溢血で倒れて、鎌倉市由比ガ浜の自宅で死去。

▶ 高浜虚子の俳句

 高浜虚子年譜(4月8日 椿寿忌・虚子忌・惜春忌
1874年 明治7年 2月22日愛媛県松山市に生まれる。(*1)
1888年 明治21年 伊予尋常中学校に入学。翌年、同級の河東碧梧桐を介して正岡子規に俳句を教わる。
1891年 明治24年 子規より虚子の号を授かる。
1893年 明治26年 碧梧桐と共に第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学。
1894年 明治27年 碧梧桐と共に第二高等学校(後の東北大学教養部)に転入したが中退し、根岸の子規庵に転がり込んだ。
1895年 明治28年 12月9日、後継者となることを子規より要請されたが拒否(道灌山事件)。
1897年 明治30年 碧梧桐の婚約者であった大畠いとと結婚。
1898年 明治31年 俳誌「ほとゝぎす」を引き継ぎ、東京に移転。
1910年 明治43年 鎌倉に転居。
1913年 大正2年 俳壇復帰。
1937年 昭和12年 芸術院会員。
1940年 昭和15年 日本俳句作家協会(1942年~日本文学報国会俳句部会)会長。
1954年 昭和29年 文化勲章受章。
1959年 昭和34年 4月8日、脳溢血のため鎌倉市由比ガ浜の自宅で永眠。85歳。墓所は鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺。戒名は虚子庵高吟椿寿居士。
*1 松山藩士・池内政忠の五男として生まれ、9歳の時に祖母の実家の高浜家を継ぐ。本名は高浜清。