高浜虚子の次女で虚子をも凌ぐ才能を持つ星野立子
1903年(明治36年)11月15日~1984年(昭和59年)3月3日。東京府麹町区富士見町(千代田区)出身。高浜虚子の次女。1925年に「文学界」主宰・星野天知の息子で鎌倉彫職人の星野吉人と結婚。星野椿の母。結婚後、虚子のすすめで22歳より作句。1930年、「玉藻」創刊・主宰。1932年、ホトトギス同人。
中村汀女・橋本多佳子・三橋鷹女とともに四Tと称され、虚子も「さらに写生の道を立子の句から教わったと感じる」と述べたほど、その才能を高く評価していた。2012年には、女性俳人を顕彰する星野立子賞が設立されている。
1970年10月に脳血栓で倒れ、右半身が麻痺したために、左手に持ち替えた鉛筆で俳句を綴り、最後に「春寒し赤鉛筆は六角形」と詠む。脳血栓で倒れる20年ほど前、50歳を目前にして詠んだ「雛飾りつゝふと命惜しきかな」の句碑が、墓所である鎌倉の寿福寺に建てられている。昭和59年の桃の節句に、直腸癌で死去。享年80。
▶ 星野立子の俳句
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1903年 | 明治36年 | 11月15日、東京府麹町区富士見町(千代田区)に高浜虚子の次女として生まれる。(*1) |
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1910年 | 明治43年 | 家族で鎌倉に移る。 |
1924年 | 大正13年 | 東京女子大学高等学部卒業。 |
1925年 | 大正14年 | 「文学界」主宰の星野天知の息子である鎌倉彫職人の星野吉人と結婚。ホトトギス発行所・文化学院に就職。 |
1926年 | 大正15年 | 3月、高浜虚子の勧めで作句を始める。 |
1930年 | 昭和5年 | 2月に長女早子(星野椿)が生まれる。6月に虚子の助言で、初めての女性主宰誌「玉藻」を創刊。 |
1932年 | 昭和7年 | 「ホトトギス」同人。 |
1953年 | 昭和28年 | 北米・ブラジルを旅する。 |
1956年 | 昭和31年 | 政府文化使節として、インド・ヨーロッパを訪問。 |
1959年 | 昭和34年 | 虚子の死去に伴い、朝日俳壇選者を継承する。 |
1969年 | 昭和44年 | 高木晴子と再び北米・ブラジルを旅する。 |
1970年 | 昭和45年 | 脳血栓で倒れ入院(翌年3月退院)。 |
1975年 | 昭和50年 | 勲四等宝冠章受章。 |
1984年 | 昭和59年 | 3月3日、直腸癌により死去。鎌倉の寿福寺に埋葬。(*2) |
*1 | 兄と姉、弟と妹4人。長兄に高浜年尾、弟に池内友次郎、妹に高木晴子、上野章子ら。 |
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*2 | 2001年、鎌倉市に鎌倉虚子立子記念館がオープン。2012年、上廣倫理財団が星野立子賞を設立。 |