きそどのと せなかあわせの さむさかな
島崎又玄の句。おくの細道の旅を終えた松尾芭蕉は、元禄4年(1691)9月28日まで上方に滞在。その9月13日(?)、又玄は芭蕉の居た無名庵を訪ね、一泊して句を詠んだ。無名庵とは、義仲寺のことであり、木曾義仲の墓所であるが、又玄の句の成立時、芭蕉は存命である。
現在では、義仲寺にある芭蕉墓とともに取り上げられることが多いため、芭蕉を弔う句であるとの認識がある。
各務支考の「葛の松原」(1692年)には、「木曾塚に旅寝せし頃」の前書きのあと「木曾殿と背あはする夜寒哉 いせ又玄」。車庸の「己が光」(1692年)には、「木曾塚、無名庵に一夜あかして」の前書きのあと「木曾殿と背を合す夜寒哉 伊勢又玄」。
▶ 島崎又玄の句
義仲寺の句碑(滋賀県大津市)
巴御前が草庵を結び、源義仲を供養したことにはじまる義仲寺。義仲を敬愛した松尾芭蕉は、「骸は木曽塚に送るべし」と、隣に葬られることを希望し、元禄7年(1694年)10月に義仲寺に葬られた。
山門を潜り真っすぐ行くと、左手に巴塚、その奥に義仲公の墓があり、さらに向こうに並ぶように芭蕉翁墓がある。この句碑は、巴塚の手前に建っている。
現在では芭蕉の追悼句のように思われている「木曽殿と背中合せの寒さかな」。その出所がどこなのか調べてみたが、よく分からない。もしかすると、この句碑がもとになって、人伝に広がったものなのかな…などと考えてみたりする。あるいは芭蕉の死後、「木曾殿と背あはする夜寒哉」を推敲したものだろうか。
【撮影日:2018年12月31日】
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