かんぞうの めのとびとびの ひとならび
ホトトギス昭和4年6月号に掲載された高野素十の俳句。巻頭に次の4句が掲載され、その最後に当たる。
風吹いて蝶々迅く飛びにけり
初蝶にかたまり歩く人数かな
ひとならび甘草の芽の明るさよ
甘草の芽のとびとびのひとならび
「よみものホトトギス百年史」(稲畑汀子1996年)に、「写生の模範と賞賛される一方、他派からは草の芽俳句と侮蔑を込めてよばれた有名な句である」と紹介されている。些末主義とも揶揄される句ではあるが、素十の代表句として、よく取り上げられる俳句である。
▶ 高野素十の俳句
句評「甘草の芽のとびとびのひとならび」
山本健吉「俳句とは何か」1993年
趣味的なものによって結ばれている連衆組織は、その独善性と排他性とをどうしても露呈せざるを得ないのである。例えば、「ホトトギス」で高野素十等によって、「草の芽俳句」というものが作られたことがある。それはきわめて些末な対象に即しようとする態度で作られた俳句であって、客観写生の主張から導き出される必然の帰結としてのトリヴィアリズムである。それは素十の
甘草の芽のとびとびの一ならび
の句によって、「草の芽俳句」と名づけられ、褒貶の的となった。だが虚子は、このような傾向を支持し、「かういふ句の面白さが分らない人たちは気の毒な人たちです」というような態度を取った。「気の毒な人」とは、もちろん風雅を解さない人という意味であり、「ホトトギス」の仲間に加わる資格のない人である。