きさがたや あめにせいしが ねぶのはな
うらみに結び付く合歓
松尾芭蕉、1689年(元禄2年)の「おくのほそ道」。曾良旅日記では、6月15日(新暦7月31日)に象潟へ趣くという記述がある。雨の中、塩越に到着したのは6月16日の昼。その日、象潟橋まで出向いて、雨の景色に見入った。翌日は昼から晴れて、干満珠寺に参拝して帰ると、祭りが行われていたとある。夕食後、象潟に船を浮かべ、18日に発った。
曾良の「俳諧書留」には「象潟の雨や西施がねむの花」とあり、「夕に雨止て、船にて潟を廻る」の前書きで「夕晴や桜に涼む浪の花」を併せて載せる。
以下、「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし」で有名な、おくのほそ道「象潟」の項である。
江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝天能晴て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功后宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
象潟や雨に西施がねぶの花
汐越や鶴はぎぬれて海涼し
祭礼
象潟や料理何くふ神祭 曾良
蜑の家や戸板を敷て夕涼 みのゝ国の商人 低耳
岩上に雎鳩の巣をみる
波こえぬ契ありてやみさごの巣 曾良
象潟は、歌枕として知られ、この地に3年滞在した能因法師は「世の中はかくても経けり象潟や 海人の苫屋をわが宿にして」、西行法師は「きさかたの桜は浪にうづもれて 花の上こぐあまのつり舟」の和歌をのこしている。しかし、1804年の象潟地震で海底が隆起し、干拓事業による水田開発も進んだために、現在ではこの句が詠まれた当時の姿をとどめてはいない。
この芭蕉の「象潟や雨に西施がねぶの花」に詠まれた「西施」は、春秋時代末期を生きた中国古代四大美女の一人。越王の策略で呉王に差し出された美女で、呉国を滅亡に導いたとされる。呉国滅亡後は、長江に投げ入れられて殺された。
芭蕉は、「うらむがごとし」と表現した象潟の風景に、西施が眠る長江の景色を思い描いたのだろう。本来ならば「合歓」に釣り合う「晴天」を置くだろうが、悲劇の女性像の前に、「合歓」が導くものは喜びだけではないことを語っている。
この句の意味は、「象潟は、雨中に西施のような合歓の花が咲いている」というような感じ。
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