桜井梅室

さくらいばいしつ

天保の三大家

明和6年11月27日(1769年12月24日)~嘉永5年10月1日(1852年11月12日)。加賀国金沢(石川県金沢市)出身。成田蒼虬、田川鳳朗と共に天保の三大家とされる俳人。上田馬来・高桑闌更に師事。秋槐庵4世を襲名。

加賀藩の研師であったが、文化4年(1807年)に家業を弟子に譲って上京。嘉永4年(1851年)には、二条家から花の本宗匠(7世)の免状を得た。
嘉永5年(1852年)6月に体調を崩し、9月18日に辞世「ひとしづくけふのいのちぞ菊の露」を詠む。10月1日、旧作「石の戸にいつまで草の紅葉かな」を浄書し、死去した。

▶ 桜井梅室の俳句

季語検索を簡単に 季語検索を簡単に 季語検索を簡単に 季語検索を簡単に