ゆくはるや とりなきうおのめはなみだ
矢立初めの句に見る旅立ちの心
元禄2年(1689年)松尾芭蕉「おくのほそ道」の旅。3月27日(新暦5月16日)の晴天の中、見送り人とともに千住に下船して、この句を「おくのほそ道」の詠みはじめとして、人々に別れを告げた。
曾良旅日記には3月20日に千住に入ったとあり、3月27日夜は春日部泊とあるが、これは誤りか。杉風詠草には、多病が心もとなくて弥生末まで引きとどめたとある。
この句の意味は、「春は過ぎ去ろうとしており、鳥は泣き、魚は涙を浮かべて悲しんでいる」というような感じになる。ただ、「魚の目」は足にできたウオノメに掛かり、「行く」に「引き留める病」が配置された構図で、不安に揺れる心情を表現している。「鳥」は「魚」を導く役割を果たし、「啼」と「泪」で同調させている。
以下、「おくのほそ道 旅立」より。
弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。
▶ 松尾芭蕉の句
句評「行春や鳥啼魚の目は泪」
蓑笠庵梨一「奥細道菅菰抄」1778年
杜甫ガ春望ノ詩二、感時花濺涙、恨別鳥驚心。文選古詩二、王鮪懐河岫、晨風(鷹ヲ云)思北林。古楽府二、枯魚過河泣、何時還復入。是等を趣向の句なるべし。
素盞雄神社の句碑(東京都荒川区)
千住の隅田川河畔に素盞雄神社があり、本殿脇に、荒川区指定文化財「松尾芭蕉の碑」がある。「千壽といふ所より船をあかれは 前途三千里のおもひ胸にふさかり まほろしのちまたに離別のなみたをそゝく 行くはるや鳥啼魚の目はなみた はせを翁 巳友巣兆子翁の小影をうつし またわれをしてその句を記さしむ 鵬斎老人書」と刻まれる。
文政3年(1820年)の芭蕉忌である10月12日、千住の山崎鯉隠による建立。銘文は亀田鵬斎、画は建部巣兆が手がけている。長年の風雨により損傷が激しかったが、平成7年に復刻した。その際に「奥の細道矢立初め全国俳句大会」を行い、現在では毎年の恒例行事となっている。
以下は、素盞雄神社鳥居外に掲げられた、句碑の説明文である。
ここ千住は日光道中の初宿で、当社より少し北上したところに架かる千住大橋は、江戸で最初に架けられた橋として知られています。浮世絵のなかの大橋も行き交う人々で賑っていますが、旅を住処とした漂泊の詩人・松尾芭蕉も、ここ千住から「奥の細道」へと旅立ちました。
この紀行から百三十年後の文政三年(一八二〇)、千住宿に集う文人達によって旅立ちの地の鎮守である当社に句碑が建てられました。
「奥の細道」矢立初めとなる一節を刻んだこの碑は、江戸随一の儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を、文人画壇の重鎮である谷文晁の弟子で隅田川の対岸関屋在住の建部巣兆が座像を手がけています。
千住からは日光街道を辿ったから、芭蕉が下船したのは隅田川の対岸、今は大橋公園となっているあたり。そこには、「おくのほそ道矢立初の碑」がある。
【撮影日:2019年5月6日】
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