横須賀や只帆檣の冬木立

よこすかや ただほばしらの ふゆこだち

横須賀や只帆檣の冬木立「寒山落木」巻四(明治28年)所収の正岡子規の句。横須賀港に浮かぶ船の帆柱を、冬木立に見立てて詠んだと言われている。
正岡子規が横須賀に立ち寄ったとの記載は、「筆まかせ」の明治21年条にある。主目的は鎌倉旅行で、浦賀に船で上陸した後、横須賀、金沢を廻って、鎌倉に入った。鎌倉では暴風雨となり、冬のような寒さの中、子規は初めての喀血を経験した。
この時に詠まれたものならば、夏の終わりに冬木立を詠んだことになる。

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ヴェルニー公園の句碑(神奈川県横須賀市)

横須賀や只帆檣の冬木立ヴェルニー公園の軍艦長門碑の近くに、この句碑がある。説明書きによると、明治21年8月に鎌倉旅行をした際に立ち寄り、詠まれたとある。晩夏に、船の帆柱を冬木立に見立てたと。

果たして、その頃の子規がこんな句を詠むだろうか?
「寒山落木」明治21年条にこの句はなく、明治28年条に出て来る。明治21年の「筆まかせ」の記載に、横須賀を過ぎた翌日は暴風雨で、冬のような寒さだったとの記述はあるが、この日は船も運行されており、さほどのこともなかったはず。帆柱を裸木に見立てる面白さはあるにしても…

明治28年の子規は、日清戦争従軍記者として中国に渡ったりなどしている。横須賀沖を通過したこともあっただろう。戦で勝利を収めたものの、三国干渉により、行き場を失った船を目に焼き付けたか…
横須賀は大きな軍港である。係留された船団を遠景にすれば、たしかに響く。

この句碑は、平成3年(1991年)に建立されたもの。説明書きには次のようにある。

正岡子規の文学碑
明治二十一年(一八八八)八月、正岡子規は夏季休暇を利用して、友人とともに汽船で浦賀に着き、横須賀・鎌倉に遊んだ。
碑の句は、横須賀港内に連なる帆檣(ほばしら)の印象を詠んだもので、句集「寒山落木」に収録されている。
正岡子規は、慶応三年(一八六七)九月十七日、伊予国温泉郡(現・愛媛県松山市)に生まれ、本名を常規といった。
松山中学校時代は政治家志望であったが、上京後は文学に転じ、文科大学国文科(現・東京大学)に進んだ。
子規は、写実(写生)を主張して、空想を排する俳句の革新を行った。その考えを新聞『日本』紙上に、「獺祭書屋俳話」(明治二十五年)、「俳諧大要」(同二十八年)として表した。また、句作は生涯に二万句を数え、特に明治二十五年(一八九二)から同三十一年(一八九八)までは毎年千句以上を創作した。同三十年(一八九七)には「ホトトギス」が創刊され、以来子規派の雑誌として注目された。一方、同年には、『歌よみに与ふる書』を「日本」に掲載し、短歌の革新にも着手した。これは、俳句で主張した写生を短歌の上にも及ぼしたものであった。
子規は、明治三十五年(一九〇二)九月十九日、三十五歳の若さで亡くなったが、彼の主張は、俳句では、高浜虚子、河東碧梧桐らが継承し、短歌では、斎藤茂吉、島木赤彦らの「アララギ」派に受け継がれていった。また、彼の提唱した写生文は、夏目漱石、伊藤左千夫ら後続の文学者に影響を与えた。

【撮影日:2019年5月26日】

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