麦の穂をたよりにつかむ別れかな

川崎にある松尾芭蕉の句碑

むぎのほを たよりにつかむ わかれかな

芭蕉の句碑京浜急行八丁畷駅を降りてすぐの、道の向こう側に芭蕉の句碑がある。晩年の元禄7年(1694年)5月11日に、芭蕉の息子とも目される次郎兵衛を連れて江戸深川を発ち、故郷の伊賀上野に向かう途上、川崎宿を少し過ぎたところに腰掛茶屋・一茶亭(通称「榎だんご」)があり、そこで団子を食べながら見送りの弟子たちと句を詠み合った時に成った「麦の穂」を刻む。
句碑は、俳人一種が、天保の三大俳人の一人として知られる桜井梅室に揮毫してもらって、文政13年(1830年)8月に建立したもの。当初は茶屋跡に建てられたというが、その後転々として、昭和27年6月に地元の俳人たちによって、やや南西に下った現在地に移された。句碑の近くにある日進町町内会館は「麦の穂」と名付けられ、句碑と東海道の説明書が掲げられている。


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芭蕉句碑巡り 2018年5月3日

芭蕉句碑昨年末、新聞に川崎の「麦の穂」の句碑のことが載っていた。前回の東京五輪を前に保存機運が高まり、町内会で管理を行うようになったということ。現在では会員の高齢化のために、その存続が危ぶまれているということ…
川崎駅の隣にあたる八丁畷に降りると、半ばシャッター街となったアーケードがあり、記事の内容に納得。若者で賑わう川崎市街から歩いて10分の距離でもこの有様。ただ、付近には簡易宿泊施設が立ち並び、決して人通りが少ないというわけではない。ここは、汗水たらして稼いだ夢を育み、通過していく場所なのだろう。芭蕉句碑

芭蕉の時代には川崎宿の外れにあたり、一面麦畑が広がるところ。深川を出立した旧暦5月11日は、今年ならば6月24日。麦の穂が伸び、その上を湿気を帯びた風が吹き抜けていたことだろう。旅立ちを、暑さ増し行く梅雨時と決めた芭蕉。抜き取った麦の穂のか細さに、「別れ」を歌うこころは如何に…
死の予感があったと見る向きもある。この旅では、伊賀の兄を見舞った後に異国情緒を求めて西国へと足をのばす予定もあったが、5カ月後に客死。野坡らの手向けの句も空しく、残した弟子たちとは本当の別れとなってしまった。

麦畑や出抜けても猶麦の中  野坡



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わがきぬにふしみの桃の雫せよ

京都伏見にある松尾芭蕉の句碑

わがきぬに ふしみのももの しづくせよ

芭蕉の句碑歴史の町・伏見の下油掛町西岸寺に、「蕉翁塚」としてこの句碑はある。文化2年(1805年)初冬建立、刑部卿貞揮毫。
西岸寺は、商売繁盛の御利益で知られ、油懸地蔵(あぶらかけじぞう)と呼ばれる浄土宗の寺。松尾芭蕉は貞享2年(1685年)に、三世住持であり重頼門下の俳人でもある任口上人(如羊・宝誉)を訪ねている。その時に詠まれたこの句が、その年に成った「野ざらし紀行」に掲載されている。
周囲は、桃の産地。安土桃山時代を築いた伏見城跡地が「桃山」と呼ばれたように、明治のころまでは桃の産地だったと言われている。しかし、現在では桃よりも酒の産地としての方が有名。
日本三大酒処のひとつに数え上げられる伏見は、秀吉の時代より酒造を盛んにし、西岸寺の周辺にも大手の蔵が立ち並ぶ。中でも人気の「守破離」などを醸造する松本酒造は、この芭蕉の句に因んだ「桃の滴」を醸造しているのだ。


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芭蕉句碑巡り 2017年12月29日

芭蕉句碑日本の歴史を語る上で外すことのできない土地・伏見には、様々な時間が混在している。西岸寺は、寺田屋騒動で知られる寺田屋の真北100メートルのところにあり、電気鉄道事業発祥の地ともなった場所に面している。その表の通りは、伏見酒蔵小路・竜馬通りと交差し、海外を含めた観光客でごったがえしている場所だ。
芭蕉句碑
「野ざらし紀行」の旅で、足をのばしてまで芭蕉が訪ねた任口上人は、談林派の俳人であり旧知の仲。芭蕉41歳のその年、80になる。翌年4月13日にはこの世を去ってしまうから、訪ねた時にはかなり衰弱が進んでいたのかもしれない。
そんな二人を、この寺に今なお残る油懸地蔵は目に焼き付けていることだろう。注がれた油で黒変する皮膜の中には、芭蕉の手によるものもあるだろう。
そう思いつつ、近くで買った「桃の滴」のカップ酒を油瓶の並ぶ地蔵堂に捧げてみる。が、よく見れば、そのラベルの桃は実になっている。この句の「桃」は「実」ではなく「花」だ。

芭蕉は、この句に後継となる決意を秘めているように思えてならない。桃は、芭蕉こと「桃青」をも指す。「伏見の桃」とは言わずもがな。
「わたしが来たのだから、あなたの志を最後まで貫き通して下さい。」
同志である任口上人の思いを結実させると誓いをたて、この句を捧げた―――そんな芭蕉がいたのではないかと思えてくるのだ。

新年の御慶とは申けり八十年  任口



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此松の実ばえせし代や神の秋

鹿島神宮にある松尾芭蕉の句碑

このまつの みばえせしよや かみのあき

芭蕉の句碑貞享4年(1687年)8月25日に成った「鹿島紀行」は、桃青こと芭蕉44歳の旅行記。鹿島の根本寺に戻っていた仏頂和尚の招きに応じ、仲秋の名月を鑑賞することになっていた。が、当日は雨。無月の空を眺め「鹿島紀行」に載せる句を詠んだ後、数日の滞在で鹿島神宮にも参拝したと見える。「神前」としてこの句を掲載している。
仏頂和尚は芭蕉より3才年長で、根本寺第21世住職。鹿島神宮との領地争いでしばしば江戸に出向き、芭蕉庵にも近い江戸深川の臨川寺に滞在した。そこで芭蕉は仏頂和尚に出会い、禅の手ほどきを受けている。
句碑は、鹿島神宮奥宮の正面、売店兼茶屋の脇に立っている。建立は明和3年(1766年)4月。


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芭蕉句碑巡り 2016年6月27日

芭蕉句碑鹿島神宮境内には、芭蕉の句碑が2つある。古いのが奥宮正面のこの句碑で、蕉風復興に力を尽くした白井鳥酔によって立てられた。しかしそれは、茶屋の入り口に埋もれるように在って、立て看板がなければ気付かなかっただろう。奥宮とともに写真に入れようとしたが、どの角度に立っても絵になる構図を得られない。
因みに奥宮は、慶長10年(1605年)、徳川家康の奉納。元和5年(1619年)、徳川秀忠により現在の本殿が奉建されたため、それまで本殿だったものを当地に移した。よって芭蕉は、今と同じ佇まいの社殿に手を合わせているはずだ。
芭蕉句碑
悠然と構える奥宮は、その御前で要石方面と御手洗池方面に分かれる参拝客を見送っている。ほとんどの参拝客は、その見事なまでの社叢に圧倒されて、奥宮の存在に気付く人は少ない。覆いかぶさるように枝を伸ばす御神木の杉も、天に届くかと思えるほどに素晴らしい。
ただ不思議なのは、冒頭の句に「松」が詠み込まれたこと。御神木のみならず、いたるところに立派な杉が聳えており、それを引き立てる椎や樅に目が行くことはあっても、松を気にかけることはない。もっとも、七不思議の一として「根上がり松」というのがあるらしいのだが、現在は不明で、特産だった松の箸も作られていない。社叢の勢いを見る限り、芭蕉の時代にも松は劣勢であっただろう。芭蕉句碑

ならばこの句の「実ばえ」は、「見栄え」である。武甕槌大神降臨の松原をイメージして、その樹勢の衰えを歌ったか。鹿島神宮は、「鹿島立ち」で知られる旅立ちの社。芭蕉はこの句に老い先を託したと、想像してみる。
足を要石に向けると、枯枝を謳ったもうひとつの芭蕉の句碑が見えてきた。老木もまた実ばえする。霊魂を運ぶ鴉が、次の日の出を待っている。

枯枝に鴉のとまりけり秋の暮  芭蕉



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この里は気吹戸主の風寒し

息栖神社にある松尾芭蕉の句碑

このさとは いぶきどぬしの かぜさむし

芭蕉の句碑貞享4年(1687年)8月14日、鹿島根本寺の仏頂和尚の招きに応じ、松尾芭蕉はこの地方を訪れている。建立時期は文政年間(1830年頃)。小見川梅庵・乃田笙々ら、この土地の俳人によって立てられた。句にある気吹戸主は句碑の立つ息栖神社(いきすじんじゃ)の御祭神(現在は久那戸神)で、イザナギの禊の折に化成した神。息栖神社は、鹿島神宮・香取神宮とともに東国三社の一で、江戸時代には「下三宮参り」と称して伊勢神宮参拝後に巡拝する慣習があった。また、「東国三社詣」と称して訪れる人も多かったという。日本三霊泉に数え上げられ、縁結びに効能があるという忍潮井の、噂を聞きつけたカップルなど、現在でも参拝者があとを絶たない。


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芭蕉句碑巡り 2016年6月27日

芭蕉句碑芭蕉が、河合曾良と宗波を伴い「鹿島詣」に発ったのは8月14日。布佐(現在の我孫子市にある)の漁師のところに宿をとろうとしたが、魚臭くて、たまらず夜舟を出した。月を見ながら利根川を下り、おそらく息栖の津に上陸したのだろう。鹿島へは徒歩2時間の息栖神社の御前。仏頂和尚との約束で、夕べには中秋の名月を楽しむことになっている。
冒頭の句は「鹿島紀行」の中には入らない。「寒し」とあるから季節感も合わず、芭蕉の句であるとの確証も得られない。しかし秋の早朝、川辺の風はさぞや冷たかったであろう。約束の15日は、昼から雨になったというから尚更。

芭蕉句碑この句には、終末の匂いが漂っている。罪穢れを、底根の国に坐す速佐須良比売に受け渡すという気吹戸主は、人をあの世へと誘う神だ。
奇しくも、その日を境に月は欠け行き、空に寒風が満ちていくのだ。今に残る社叢の騒がしさの中には、芭蕉の耳もとをかすめたものと同じ響きもあるだろう。
しかし、息栖神社の前を行き来したという数千隻の船は無く、当時の賑わいも感じることはできない。時折やってくるカップルが、社殿に頭を下げて去っていくのみ。気吹戸主の吹く息は、その後ろ姿を木の葉で彩る。
葉を散らしているのは、オガタマの木。招霊と書いてオガタマ。幸運をもたらすとされる木は、晩春に花をつけ、黄心樹として春の季語ともなる。過ぎ去った花の季節のあとで、気吹戸主の涼やかな呼気が、青々と茂る葉の上に玉のような輝きを充満させて、時の彼方へ押しやっていく。

生きるに於いて避けられぬ過ちも、俯瞰すればアクセント。いつかあの世へ着岸した時、それを幸運として祖霊に報告もできよう。そう思えば、今夜の酒もグイグイすすむ。そうしていつやら夜道をふらつき、碑陰の句を口遊んでいた。

風はなを啼や千鳥の有かぎり  乃田笙々



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旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる

大阪にある松尾芭蕉の句碑

たびにやんで ゆめはかれのを かけめぐる

芭蕉の句碑元禄7年(1694年)9月、弟子の之道と洒堂のもめ事を仲裁するため、大坂の之道宅に来たものの体調を崩し、10月5日には南御堂前の花屋仁右衛門方へ移った芭蕉。死の4日前の10月8日、「病中吟」との前書きで「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」と詠んだ後、支考に「なほかけ廻る夢心」とどちらが良いかと問うた。支考は、身体に障ってはならぬと考え、先の句と即答したと「芭蕉翁追善之日記」にある。
南御堂境内にある句碑には、「旅に病でゆめは枯野をかけまはる」とある。これは、八十村路通編「芭蕉翁行状記」に依るものか。句碑は、芭蕉没後150年を記念して、天保14年(1843年)に建立。なお、「此附近芭蕉翁終焉之地」の碑が、南御堂前の御堂筋の緑地帯の中にある。

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芭蕉句碑巡り 2011年11月7日

芭蕉句碑芭蕉の命日は、新暦で11月28日。20日ほど早い南御堂は寂としており、冬場には枯れてしまうバショウの葉が青々としている。人通りの絶えない外の街路樹が黄葉し始めたのとは対照的。そんな静けさの中に、件の句碑が立っている。
芭蕉句碑
芭蕉最後の句とされる「旅に病で」を辞世ととらえるかどうかは、昔から議論されてきたこと。「病中吟」の前書から読み解けば、死は期せずして訪れたものであるから辞世ではないとの見方がある一方、芭蕉は全ての句を辞世として詠みあげたのだという声もある。
このように、辞世が重要な意味を持つのが我が国の常であったが、今では、遺産を整理するために遺言をしたためる方に力を注ぐ。ベッドの上でしか死ぬことが出来なくなった現代においては、死をつき詰めることができなくなった悲劇ゆえに、生きざまを明日に伝えることが出来なくなった。

今、海外では辞世に注目する向きがある。ネット上に立ち上げられたスレッドには多くが集まり、名ある辞世を鑑賞し、意見交換している。彼らは、避けては通れぬ「死」と向き合い、日本人の忘れてしまった「言霊」の中に生きようとしているのだ。



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草の戸も住替る代ぞひなの家

東京深川にある松尾芭蕉の句碑

くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ

芭蕉の句碑「月日は百代の過客にして」ではじまる「おくの細道」の序文に添えられた句は、元禄2年(1689年)3月23日付書簡(門人安川落梧宛)に「草の戸も住み替る世や雛の家」として現れている。第二次芭蕉庵を、この年の2月末に「奥の細道」の旅に出るため知人に譲り、杉風の別墅採荼庵で仮住まいしていた折に詠まれた句。譲った芭蕉庵を覗いてみると、自分とは異なる妻子を伴うひとの生活があった…という句意。なお奥の細道の旅は、3月27日に採荼庵から出発している。
この句碑は、江東区芭蕉記念館の中にあり、芭蕉庵はそこから南に300mほどのところにあった。採荼庵は、南東に1000mほどのところにある。芭蕉記念館には、芭蕉の句の中に詠み込まれた草木が植えられており、「草の戸も」の句碑の他「古池や蛙飛びこむ水の音」「川上とこの川下や月の友」の句碑もある。館内には芭蕉遺愛の石の蛙や各種資料が常設されている。

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芭蕉句碑巡り 2018年4月16日

芭蕉句碑芭蕉庵史跡庭園から隅田川沿いを歩くと、整備された遊歩道の中に芭蕉の句が点々としている。それらをひとつひとつ拾い上げながら行くと、昭和56年に建てられたという芭蕉記念館が見えてくる。表に回って門をくぐると標石があり、「左芭蕉庵」とある。そちらの方に足を向けると、鬱蒼とした緑の築山の上に御堂がある。それが、昔日を模ったという芭蕉庵。中には芭蕉像が安置されている。

芭蕉句碑その芭蕉像は、かつて芭蕉稲荷に祀られていたというものだ。コンクリート塊に取り囲まれてしまった立地を嫌って、月光が川面におちるこの場所に住み替えたか。夜になると朗々とした声を上げるのかもしれないと思いながら手を合わせると、耳元にそっと風が囁く。顔を上げると、「川上とこの川下や月の友」の碑が見える。
草の戸は朽ち果てるとも魂は漂い、こうして棲家を代えながら、今はこの小さな芭蕉庵の中で時を重ねる。そうして、「少しだけよみ間違いを犯したようだね」と指摘する友を待ち続けているのかもしれない。

葉桜や昔の人と立咄  子規



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川上とこの川下や月の友

東京深川にある松尾芭蕉の句碑

かわかみと このかわしもや つきのとも

芭蕉の句碑芭蕉庵史跡展望庭園の句碑。元禄6年(1693年)秋、隅田川に東方から合流する小名木川に舟を浮かべ「深川の末、五本松といふ所に船をさして」という前書きで詠まれた。小名木川五本松とは、芭蕉庵史跡展望庭園から東に2㎞ほど行った島忠のあたり。江戸時代には綾部藩九鬼家の下屋敷があり、松を三代将軍家光が愛でたことから月の名所になった。この句碑は、そこにあった住友セメントシステム開発が平成20年12月4日に敷地内に建立したというが、2011年7月の移転に伴い当地に寄贈されたという。
句意は、「川上において友も同じ月を眺めていることだろう」というもの。その友とは、山口素堂のことではないかと言われている。芭蕉没後の元禄11年(1698年)「続猿蓑」所収。同じ句碑は、北に300mほど離れた江東区芭蕉記念館の中にもある。

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芭蕉句碑巡り 2018年4月16日

芭蕉句碑深川とは、隅田川の深さを言ったものかと思っていたが、付近を開拓した深川八郎右衛門の名を冠しているということだ。その深川八郎右衛門と同時代に生きた小名木四郎兵衛が、家康の命で掘削した運河が小名木川だという。

芭蕉句碑芭蕉庵史跡展望庭園は、小名木川と隅田川の合流地点を見下ろすようにつくられている。芭蕉稲荷の付近から芭蕉の愛でた石蛙が発見されたことから、50mほど東に入ったそこに史跡芭蕉庵跡の碑が立つが、津波の後で石蛙が発見されたということだから、本当は川下となるこの辺りに芭蕉は住んでいたのかもしれない。

芭蕉庵から当時見えたという富士も浅草観音も、今はビル陰に見えない。そんな時代の変遷の中でも芭蕉は、ブロンズ姿で平成7年によみがえり、行き交う船に目を向けている。芭蕉に惹かれるものはその後方に立ち、同じ景色を見ようと川面に見入る。しかし映し出されるのは、昨日と変わらぬ空の色。行く風が、打ち消すように波と広がる。

今日は何の句も浮かんでこない…



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古池や蛙とびこむ水の音

東京深川にある松尾芭蕉の句碑

ふるいけや かわずとびこむ みずのおと

芭蕉の句碑深川芭蕉庵跡とされる芭蕉稲荷境内に句碑がある。俳句の代名詞とも言えるこの句は、1686年(貞享3年)閏3月刊行の「蛙合」初出で、この年に深川芭蕉庵で行われた句合で詠まれたものと考えられている。芭蕉42歳。芭蕉がここへ移ってきた時には湿地が残り、詠み込まれた「古池」が、芭蕉庵の傍にあったと言われている。
芭蕉はこの句を自身の説く不易流行の代表ととらえており、門人の各務支考は「情は全くなきに似たれども、さびしき風情をその中に含める風雅の余情」ととらえた。新たな時代の始まりを告げる句となった。

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芭蕉句碑巡り 2018年4月16日

芭蕉句碑深川芭蕉庵は、杉山杉風に草庵の提供を受けた松尾芭蕉が、延宝8年(1680年)から晩年の元禄7年(1694年)までを過ごした場所。もっとも、延宝8年(1680年)から江戸の大火で焼け出されるまでの第一次芭蕉庵、天和3年(1683年)から奥の細道の旅に出るまでの第二次芭蕉庵、元禄2年(1689年)から晩年までの第三次芭蕉庵と、付近を転々としており、没後3年の元禄10年には松平遠江守の武家屋敷に取り込まれた。最後の庵は、池を前面にして3部屋。俳号の由来となったバショウも移植していたという。
幕末の混乱下、場所が分からなくなっていたものの、大正6年の津波により芭蕉の愛でた石蛙が顔を出したため、そこに芭蕉稲荷を祀った。現在では、ビルの谷間の赤い祠付近が史跡芭蕉庵跡となっている。なお、発見された石蛙は、北に300mほど行ったところにある江東区芭蕉記念館に展示。その代わりとしてやってきた蛙は、境内のあちらこちらで様々な表情を浮かべている。

芭蕉句碑中でも、手水横と奥の細道旅立参百年記念碑(平成元年建立)の間に座する蛙は印象的。旅路の困難を取り除くために祀られたか、赤石がまるで宝石のような存在感を漂わせている。その近くには旅姿の老人が休んでいたが、ここを目的地としてやってきたのか、ここから旅立っていくのかは不明。ただ、その姿を見れば芭蕉の足跡を辿っていることだけは明らか。

芭蕉句碑しかし悲しいかな、ここは隅田川の川風が通るとは言え、その隅田川は運河として海の色を呈している。潮風に洗われる場所で、果たして本当に古池の句が生まれたのだろうか?津波に発見された蛙を根拠とする庵なら、翁の住んでいた場所はもっと湿地然とした別の場所にあるのかも知れない…そんなことを考えながら歩いていると、芭蕉庵史跡展望庭園の中に小さな池を発見。そこには、多数のおたまじゃくしが泳いでいる。顔を上げると、向こうに芭蕉翁の銅像。その視線を辿ってみると、海という名の大きな古池が広がっていることに気が付いた。

から井戸へ飛びそこなひし蛙よな  鬼貫



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発句也松尾桃青宿の春

東京日本橋にある松尾芭蕉の句碑

ほっくなり まつおとうせい やどのはる

芭蕉の句碑延宝6年(1678年)に俳諧宗匠となった松尾芭蕉の当時の俳号は「桃青」。翌年の正月に、その心意気を詠んだと言われている。
日本橋近くの小田原町(現:室町1丁目)は、29歳の寛文12年(1672年)に伊賀上野から上京し、延宝8年(1680年)まで住んでいたと言われる場所。俳号を卜尺とした小沢太郎兵衛の借家である。魚市場に近く、多くの魚屋が並んでいた場所であったと考えられている。現在では、佃煮の老舗「日本橋鮒佐」の店先に句碑が立っているが、芭蕉はほぼこの辺りに住んでいたらしい。

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芭蕉句碑巡り 2018年3月12日

芭蕉句碑五街道の起点として、日本の文化経済の中心として繁栄した日本橋。19代目とされる橋は国の重要文化財にも指定され荘厳な造りではあるが、上部を首都高が跨ぎ窮屈そうな佇まい。今ようやく首都高の地中化計画が動き出し、2020年以降に着工するとのこと。
芭蕉は、橋の北側二筋目にある小田原町の借家に帰るために、4代目となる日本橋を往来していたことだろう。現在ではその正面に三越日本橋本店がどっかと腰を下ろし、車と人が頻繁に行き来してはいるが、銀座ほどの賑わいはない。芭蕉の時代には、日本一の繁華街だったと言われているが…。

芭蕉句碑三越前の国道4号を渡り小路に入ると、小さいながらも多くの老舗が軒を連ねる。建物こそ近代的であるが、裏通りにはまだ、江戸期からの伝統が生きている。その中のひとつ日本橋鮒佐を覗いてみると、美しい佃煮が上品に並べられている。文久2年(1862年)の創業だから、芭蕉からかなり時代は下る。幕末の北辰一刀流剣士・佐吉が初代となり、佃煮の原型を創り出したとも言われる歴史ある名店だ。その店先に「発句也松尾桃青宿の春」の句碑はあるが、その文字は、当時の俳人住所録を記した尾張鳴海の庄屋・下里知足の手によるもの。

芭蕉句碑恐らく芭蕉の時代には希薄だった上質さを纏う路地を抜けて顔を上げると、桜が咲いている。早咲きのこの桜はオカメザクラ。カンヒザクラとマメザクラを交配したもので、イギリスの桜研究家が生み出したものだという。日本橋室町を東に抜けた通りが並木となっているが、そこを行くビジネスマンは路駐の車をよけることに必死で、気に掛けることもなく潜り抜ける。ただ、舞い降りた鳥はそこに一声。風はまだ冷たくもあるが、花は、芭蕉の生きた街に339回目の春を告げている。

さまざまのこと思い出す桜かな  芭蕉



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