天明俳諧中興の先駆者
しらいちょうすい(1700年~1769年4月28日)
元禄13年(1700年)~明和6年4月4日(1769年4月28日)。上総国埴生郡(千葉県長生郡長南町)の旗本知行所の郷代官の家に生まれる。本名は喜右衛門信興。幼名は喜六。別号に牧羊・西奴・松露庵(二世)・露柱など。
20歳で家督を継ぐ。醤油醸造に携わる、近郷に並びなき豪家であったという。領主の命で奥州に出張した24歳の時、俳諧に浸って役務怠慢で罷免されることになった。家督を弟に譲り、露柱庵を構え鳥酔と号したが、ほどなく郷里を飛び出し、佐渡の金山に巨万の財を費やして失敗した。29歳で江戸に出て、松露庵一世佐久間柳居に師事し、松露庵二世となる。さらに、松尾芭蕉の旧跡を遊歴。晩年は相模大磯の鴫立庵で過ごし、江戸松露庵で没する。
辞世は「濃きうすき雲を待ち得てほとゝぎす」。鮫洲(東京都)の海晏寺にはかつて南浦松原庵があったが、そこにある墓石には、鳥酔の「松風も骨になったる寒さかな」の句が刻まれている。その横には、天明の中興五傑のひとりで鳥酔の門人・加舎白雄の墓がある。白雄は、「鳥酔居士之墓」として、「あぢさゐのかはりはてたる思ひかな」の句を遺している。
▶ 白井鳥酔の句