俳句

萱野涓泉

かやのけんせん

討ち入りを果たせなかった赤穂浪士

延宝3年(1675年)~元禄15年1月14日(1702年2月10日)。摂津国萱野村(大阪府箕面市)本名は重実。通称は三平。旗本大島義也の家老・萱野重利の三男。水間沾徳に師事。同門の赤穂藩士萱野重実(子葉)・神崎則休(竹平)とともに、俳諧の世界では「浅野家三羽烏」とも呼ばれる。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の早野勘平のモデル。

大島義近の推挙を受けて、13歳で赤穂藩主・浅野長矩に仕える。元禄14年(1701年)3月14日、浅野長矩が吉良義央に切りつけた事件では、早駕籠で第一報を赤穂へもたらす役目を負った。途中で母の死を知るが、「御家の一大事」と涙ながらに先を急いだという逸話がある。
父の主・大島家は吉良家との繋がりの深い家柄であり、父は仇討ちに反対。「忠」と「孝」の狭間に揺れた涓泉は、大石内蔵助と父に遺書をしたため、主君の月命日に自刃。辞世は「晴れゆくや日頃心の花曇り」。

▶ 萱野涓泉の俳句

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