俳句

大高子葉

おおだかしよう

赤穂浪士四十七士の一人

寛文12年(1672年)~元禄16年2月4日(1703年3月20日)。播磨国赤穂(兵庫県赤穂市)出身。本名は忠雄。本姓は安倍氏。通称は源五。水間沾徳に師事。

延宝4年(1676年)、父の死去に伴い家督を継ぎ、赤穂藩内で金奉行・膳番元方・腰物方などを務める。「忠臣蔵」で知られる元禄14年(1701年)の松の廊下での刃傷沙汰により、江戸で町人・脇屋新兵衛を名乗り潜伏。吉良家出入りの茶人・山田宗偏に入門して、吉良屋敷での茶会の日程を探り、12月14日の討ち入りとなった。討ち入りでは表門隊に属し、大太刀を持った。
その後、松平定直の中屋敷へ預けられ、切腹の命が下った元禄16年2月4日、松平家預かりの浪士10人の最後に切腹。「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」の辞世を残す。

忠臣蔵「両国橋の別れ」では、討ち入り前夜に偶然宝井其角と会ったことになっている。そこで其角は、子葉の落ちぶれた様を愁い「年の瀬や水の流れも人の身も」という句を詠む。それに対し子葉は、「明日待たるるその宝船」と付ける。
復讐を遂げた暁には、師の沾徳に手紙を書いている。

その後は彼是御無音本意に背き候。何茂様御堅固に御座成され候や。年来御懇意に罷成候ゆゑ、一通り相伝へ申し候。さては拙者事所存の筋黙止がたく、今暁存立申し候趣き御座候。御厚情彼是もつて生々世々に及び候事に御座候。
 山を裂く刀も折れて松の雪
なほなほ春帆、竹平も同じ道にて候。涓泉は、御存じのごとくにて候。御恩借の蒲団申し受け候て、そのまま打捨て置き申し候。一句御引導願ひ奉り候。
 十二月十五日 沾徳先師へ

切腹して果てた後、沾徳のもとで追悼句が寄せられている。

なき跡もなほ塩梅のめうどかな 沾徳
鶯にこの辛子酢は泪かな 其角
枝葉まで名残の霜の光りかな 沾州
その骨の名は空にある雲雀かな 貞佐

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