俳句

宝井其角

蕉門十哲第一の門弟にして洒落風俳諧の創始者・宝井其角

たからいきかく(1661年8月11日~1707年4月2日)

宝井其角の有名な俳句寛文元年7月17日(1661年8月11日)~宝永4年2月30日(1707年4月2日)。江戸堀江町(東京都中央区日本橋)に生まれる。はじめ母方の榎本姓を名乗り榎本其角、のちに宝井其角と改める。「其角」の号は、大巓和尚が、易経の「晋其角」からつけた。よって「晋子」の号もよく知られる。

14歳で松尾芭蕉の門人となり、蕉門第一の門弟と言われるまでになり、蕉門十哲には必ず其角の名が挙がる。芭蕉の没後、洒落と機知に富んだ句風を特徴とする俳人を束ねた「江戸座」を開き、一大勢力となった。「洒落風俳諧」ともいう。
宝井其角は、絵を英一蝶、儒学を服部寛斎、医学を草刈三越、詩を大巓和尚、書を佐々木玄龍に学び、多才であったが、放逸にして人事に関わらず、常に酒を飲んで醒めることがなく、頻繁に吉原に通ったとされる。そんな奔放な生活を宝井其角は「草の戸に我は蓼食ふ蛍哉」と詠んだが、それに対し芭蕉は、「朝顔に我は飯食う男哉」(虚栗)の句で戒めている。
晩年には荻生徂徠の隣に草庵を結んだが、その時に詠んだとの伝説がある「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」は、多くの人々が口遊むようになったという。

忠臣蔵「両国橋の別れ」に登場する其角は、討ち入り前夜の大高源五(俳号:子葉)と出会い、「年の瀬や水の流れも人の身も」と詠む。それに対し大高源五は、「明日待たるるその宝船」と付けたという話がある。これは、歌舞伎の演目「松浦の太鼓」の一場面にもなっている。
また、絵の師であった英一蝶との友情や、井原西鶴との交流なども知られ、江戸指折りの洒落者として、その名は全国に轟き、当時は芭蕉を凌ぐほど有名であったとも言われる。

蕉門とはいえ、その句風は芭蕉とは異なり変幻自在で、回文となる「今朝たんと飲めや菖の富田酒」や、「ゆたか」の折句で雨を呼んで伝説となった句「夕立や田を見めぐりの神ならば」、自分のものという意味の慣用句「笠の雪」を生んだ「わがものとおもへばかろし笠の雪」などもある。
芭蕉の高弟であり、芭蕉は「草庵に梅桜あり、門人に其角嵐雪有り」(1692年)と記している。しかしまた、「かれハ定家の卿也。さしてもなき事をことごとしくいひつらね侍るときこへし。評詳に似たり。」と宝井其角を評したこともあると去来抄にある。

辞世は、亡くなる7日前の2月23日に詠まれた「鶯の暁寒しきりぎりす」。門人の青流が訪ねてきた席で「春暖閑爐に坐す」として詠まれたものである。あとに「筧の野老鬚むすぶ儘」と続く。享年47。15歳から飲み始めたという酒が祟った。

▶ 宝井其角の俳句
▶ 宝井其角の酒の俳句
▶ 宝井其角の句碑



宝井其角と都会派俳諧/稲葉有祐【3000円以上送料無料】
9900円(税込/送料込)
カード利用可・海外配送不可・翌日配送不可
  【bookfan 1号店 楽天市場店】

 宝井其角年譜(旧暦2月30日 晋子忌・晋翁忌・其角忌
1661年 寛文元年 旧暦7月17日、江戸堀江町に生まれた。(*1)
1671年 寛文10年 三田大圓寺に入る(~1674年)。
1674年 延宝2年 父の紹介で松尾芭蕉門に入り俳諧を学ぶ。
1676年 延宝4年 医学を草刈三越、経学を服部平助に、詩と易を大巓和尚に学ぶ。
1683年 天和3年 蕉門最初の俳諧集「虚栗」を編集。
1684年 貞享元年 京で向井去来と初めて会う。6月5日、住吉大社で井原西鶴23500句独吟の後見役を務める。
1687年 貞享4年 10月11日、芭蕉の「笈の小文」の旅の送別句会を其角亭で開催。「続虚栗」を編集。
1687年 元禄元年 京で越年。
1691年 元禄4年 「雑談集」を編集。
1692年 元禄5年 「猿蓑」に序を入れる。
1693年 元禄6年 「萩の露」を編集。「夕立や田を見めぐりの神ならば」の句で雨乞。父死去。
1694年 元禄7年 上方に滞在時、松尾芭蕉の死に立ち会い、葬儀を取り仕切る。義仲寺で追善句会。「なきがらを笠に隠すや枯尾花」。「句兄弟」を編集。
1695年 元禄8年 11月に江戸に帰る。
1697年 元禄10年 「末若葉」を編集。長女「さち」生まれる。
1698年 元禄11年 芝田町海岸に居を移し「有竹居」を設けるも、12月10日の火災で類焼し、貞享元年以来の日記を失う。
1700年 元禄13年 茅場町の薬師堂付近に居を移し「善哉庵」とする。(*2)
1701年 元禄14年 「蕉尾琴」を編集。
1702年 元禄15年 本所にて俳諧興行中に赤穂浪士討ち入りを知り、俳友を見届けに走り出たという。前夜、四十七士の一人・大高忠雄と会ったとの伝説も。
1703年 元禄16年 次女「みわ」生まれる。
1705年 宝永2年 夏に発病。
1706年 宝永3年 妙身童女(長女)を葬る。「霜の鶴土にふとんも被されず」。
1707年 宝永4年 旧暦2月30日に亡くなる。享年47。芝二本榎上行寺に葬る。(*3)
*1 近江国膳所藩御殿医で俳人でもある・竹下東順の長男として生まれる。幼名は源蔵・源助・八十八・平助とも。宝井其角の本名は竹下侃憲(たけしたただのり)。母は榎本姓。別号は螺舎(らしゃ)、狂雷堂(きょうらいどう)、晋子(しんし)、宝普斎(ほうしんさい)。はじめは榎本其角と名乗った。
*2 ここに江戸座を開く。口語調の「洒落風」「江戸風」の俳諧を確立。
*3 上行寺の移転に伴い、現在は神奈川県伊勢原市に改葬。1747年に家集「五元集」成る(小栗旨原編)。