俳句

井原西鶴

いはらさいかく

浮世草子作者であって談林派を代表する俳諧師
矢数俳諧の創始者

寛永19年(1642年)~元禄6年8月10日(1693年9月9日)。大坂難波出身(和歌山の中津村とも)。談林派を代表する俳諧師であり、「好色一代男」(1682年)「日本永代蔵」(1688年)などを描いた浮世草子、人形浄瑠璃作者として知られる。

15歳で俳諧を志し、鶴永・松寿軒と号す。西鶴の号は、師である西山宗因から一字を頂く。
延宝元年(1673年)、大坂の生國魂神社での万句俳諧の興行で、矢数俳諧を創始する。貞享元年(1684年)には、住吉大社前で一昼夜23500句を吐き、二万堂・二万翁とも称された。
同時代を生きた人々からは「阿蘭陀流(おらんだりゅう)」「阿蘭陀西鶴」と揶揄され、松江重頼からは「ばされ句の大将」と批判された。しかし、「三鉄輪」(1678年)の序には「阿蘭陀流といへる俳諧は、其姿すくれてけたかく、心ふかく、詞新しく、よき所を今世間に是を聞覚えて、たとへは唐にしきにふんとしを結び、相撲といはすに其句に聞え侍るは、一作一座の興にありやなしや」と述べ、巻頭に「こと問はん阿蘭陀廣き都鳥」を載せる。
享年52。辞世は、「人間五十年の究りそれさへ 我にはあまりたるにましてや」の前書きとともに「浮世の月見過しにけり末二年」。

▶ 井原西鶴の俳句

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