俳句

向井去来

むかいきょらい

「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とされた蕉門十哲・向井去来

向井去来の俳句慶安4年(1651年)~宝永元年9月10日(1704年10月8日)。肥前国(長崎県)の生まれ。松尾芭蕉に師事。その芭蕉から「洛陽に去来ありて鎮西に俳諧奉行なり」の評を受ける芭蕉の高弟であり、蕉門十哲に必ず含まれる人物である。
温厚な人物で知られ、芭蕉が「嵯峨日記」をしたためた落柿舎を提供。その、落柿舎の壁には、

一、わが家の俳諧に遊ぶべし。世の理屈をいふべからず。
一、朝夕かたく精進を思ふべし。魚鳥を忌むにはあらず。
一、速かに灰吹をすつべし。烟草を嫌ふにはあらず。
一、隣りの居膳を待つべし。火の用心にはあらず。

と認められていた。「隣りの居膳」とは、屋敷守の与平が届けてくれる朝夕の食事のことだという。
「落柿舎」の由来は、庭の柿の実を売る約束をした晩、嵐が来て落ちてしまったことに因る。その句に「柿主や梢はちかきあらし山」。これは去来の代表作でもある。

向井去来の執筆した「去来抄」は、松尾芭蕉の起こした「蕉風」を理解する上で、最も重要な文献であるとされており、現代俳句においても重要文献のひとつである。その他にも「旅寝論」があり、俳論の対立から其角や許六と論争し著した「贈其角先生書」「答許子問難弁」「俳諧問答青根が峰」なども知られている。
兄の震軒、弟の魯町と牡年、妹の千子、妻の可南も俳諧で名を成した。

▶ 向井去来の俳句


 向井去来年譜(旧暦9月10日 去来忌)
1651年 慶安4年 肥前国(長崎市興善町)に生まれる。(*1)
1658年 萬治元年 京都に移り住む。
1676年 延宝4年 武士を捨て、陰陽家として堂上家に仕える。(*2)
1686年 貞享3年 江戸に下り、其角を介して初めて芭蕉と会う。
1689年 元禄2年 嵯峨の別宅を「落柿舎」と名付け、芭蕉に宿舎として提供。
1691年 元禄4年 去来は凡兆とともに「猿蓑」を刊行。
1699年 元禄12年 3月「旅寝論」著。(*3)
1702年 元禄15年 「去来抄」執筆開始。
1704年 宝永元年 旧暦9月10日死去。享年54。真如堂の向井家墓地に葬られる。
*1 著名な儒医・向井元升の次男として生れる。通称は向井平次郎。別号に落柿舎。
*2 後に福岡に下り武道を修め、福岡藩に招請されるも辞退し、武士を捨てる。上京し、父を継いで典薬となった兄を補佐。
*3 1761年、江戸の戸倉屋利兵衛から「去来湖東問答」の名で刊行。1778年、京の井筒屋庄兵衛などから「旅寝論」の名で刊行。