柳原極堂

やなぎはらきょくどう

ほとゝぎすを創刊

慶応3年2月11日(1867年3月16日)~昭和32年(1957年)10月7日。伊予国温泉郡北京町(愛媛県松山市)に生まれる。本名は正之、幼名は喜久馬。正岡子規の同級生。
明治30年(1896年)1月15日、松山で「ほとゝぎす」を創刊。翌年10月の21号からは、東京の高浜虚子が引き継ぐ。因みに、創刊号の口絵には与謝蕪村の「ほととぎす平安城をすちかひに」の句を採用。
昭和7年(1932年)には「鶏頭」を創刊。晩年は子規研究に没頭し、辞世は「吾生はへちまのつるの行き処」。「へちま」は勿論、子規のことである。

▶ 柳原極堂の俳句

 柳原極堂年譜
1867年 慶応3年 旧暦2月11日、伊予国温泉郡北京町(現在の松山市二番町)に生まれた。(*1)
1881年 明治14年 松山中学に入学。正岡子規と親交を深める。
1883年 明治16年 子規と謀って松山中学を中退し上京。
1889年 明治22年 海南新聞社に入社。
1894年 明治27年 松風会を結成し、「碌堂」と号する。
1896年 明治29年 子規に勧められ俳号を「極堂」に変えた。
1897年 明治30年 月刊俳誌「ほとゝぎす」を創刊。(*2)
1899年 明治32年 松山市議会議員に当選。
1906年 明治39年 再創刊した伊予日々新聞の社長に就任。
1932年 昭和7年 「鶏頭」を創刊。
1957年 昭和32年 10月7日死去。90歳。墓所は松山市の妙清寺。松山市初の名誉市民となった。
*1 柳原権之助、トシの長男として生まれる。本名は正之、幼名を喜久馬。
*2 21号以降は高浜虚子に譲渡。