内藤鳴雪

ないとうめいせつ

日本派の長老

1847年5月29日(弘化4年4月15日)~1926年(大正15年)2月20日。伊予松山藩の上級武士の長男として、江戸中屋敷に生まれた。幼名は助之進、元服して師克(もろかつ)、のち素行(もとゆき)。俳号は「成り行き任せ」から。常盤会寄宿舎監督となり、寄宿生であった正岡子規に師事。

大正14年12月21日、脳溢血で倒れた。その際に「病む身には昼もかゞまる蒲団かな」などとともに認められてあった、「只たのむ湯婆一つの寒さかな」が最後の句とされる。

▶ 内藤鳴雪の俳句

 内藤鳴雪年譜(2月20日 老梅忌・鳴雪忌)
1847年 弘化4年 旧暦4月15日、伊予松山藩の上級武士内藤房之進と八十の長男として、藩の江戸中屋敷に生まれる。(*1)
1886年 明治19年 東京に学ぶ松山の子弟の寮である常盤会寄宿舎監督となる。
1892年 明治25年 正岡子規を俳句の師とし、互選句会「椎の友」に加わった。
1897年 明治31年 ホトトギス選者。
1923年 大正12年 大阪市西区京町堀の商家の娘・阿波野貞の婿養子となり阿波野姓となる。
1924年 大正13年 「ホトトギス」課題選者に就任。
1925年 大正14年 肋膜炎を病み、軽い脳溢血で臥床。
1926年 大正15年 2月20日、麻布笄町(現在の西麻布四丁目)の自宅で没。79歳。
*1 幼名助之進、元服して師克(もろかつ)、のち素行(もとゆき)。俳号は、鳴雪のほかに南塘・破蕉・老梅居。「鳴雪」は、「成行き」の当て字。