こにしらいざん
俳文「女人形記」で知られる江戸前期の俳人
1654年(承応3年)~1716年11月16日(享保元年10月3日)。大阪淡路町の薬種商の家に生まれる。通称は伊右衛門、十万堂・湛翁と号す。
9歳で父をなくしたが、父と同門だった談林派の前川由平の後見を得て、18才で宗匠となる。元禄3年(1690年)には、上島鬼貫とともに「生駒堂」を著す。
無類の酒好きで、奇行でも知られた。それを如実に表した俳文に、「女人形記」がある。
西行法師に銀猫を給ひけるに、門前の童子にうちくれて通りしとかや、いはくこそあらめ、我は道にてやきものの人形にあひ、懐にして家に帰り、昼は机下にすへて眼によろこび、夜は枕上に休ませて、寝覚の伽とす。世を見れば画木の達磨などを崇めて、科もなき身を白眼つめらるるよりは、はるかにましてんや、ものいはず笑はぬかはりには腹立ず悋気せず、蚤蚊の痛を覚えねば、いつまでも居ずまゐを崩さず、留守に待らむとの心づかひなし、酒をのまぬはこころうけれど、さもしげに物喰わぬはよし、白き物ぬらねばはげる事なし。四時おなじ衣装なれども、寒暑をしらねば、此方更に気のはる事なし、夏はむかふに涼しく、撫るに心よく、冬は爐のもとをゆるさねば、よい加減にあたたかなり、女の石に成かたまりしためしを思へば、石が女に化すまじきものにもあらず、千とせをふとも変すまじきかたち、風老がなからんあとの若後家、さりとも気づかひなし、舅殿は何国の土工ぞや、其出所はしらず。あらうつつなの、いもせものがたりやな。
折事も高根の花や見たばかり 来山
辞世は「来山は生まれた咎で死ぬる也 それでうらみも何もかもなし」「よしやよし身は夕暮のもどり馬 月を目あてに一筋のみち」。
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