俳句

上島鬼貫(うえしまおにつら)

独ごとで知られる芭蕉のライバル上島鬼貫

万治4年4月4日(1661年5月2日)~元文3年8月2日(1738年9月15日)。摂津国川辺郡伊丹郷(兵庫県伊丹市)出身。上島惣兵衛。伊丹有数の酒造である油屋の三男。奥州平泉の藤原氏の流れをくみ、武士として出仕していた頃は藤原宗邇と名乗り、晩年は金華翁と号した。
松江重頼西山宗因に師事。若い頃、その二人の師の列座する会に出席して、「ちよと見には近きも遠し吉野山」の前句に「腰に瓢を下げてぶらぶら」と付けた。執筆から吉野山と瓢の関係を問われ、「吉野山花の盛りをさねとひて 瓢たづさへ道たどり行く」という歌が万葉集か夫木集にあったと嘯いたという。

享保3年(1718年)には「独ごと」を刊行。その中にある「まことの外に俳諧なし」の境地には、すでに25歳の時に達していた。その真意は「よき哥といふをおもふに、詞に巧みもなく、姿に色品をもかざらず、只さらさらとよみながして、しかも其心深し」というところにある。芭蕉以前の俳諧の様相に、否定的な立場を示している。
上島鬼貫に関心を寄せた河東碧梧桐は、明治36年の「ホトトギス」で、「鬼貫忌」を兼題とし、鬼貫忌は秋の季語に定まった。ここで碧梧桐は「独言は家の宝や鬼貫忌」と詠んでいる。

東の芭蕉・西の鬼貫と称され、松尾芭蕉とは敦賀で会って「歩く物と知れば尊し神おくり」の句を残したと言われる。しかし、直接の面識はないとの説もある。
辞世は「夢返せ烏の覚ます霧の月」。

▶ 上島鬼貫の俳句



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 上島鬼貫年譜(旧暦8月2日 鬼貫忌)
1661年 万治4年 旧暦4月4日、摂津国河辺郡伊丹郷(兵庫県伊丹市)(*1)に生まれる。
1668年 寛文8年 俳諧を始め、「こいこいといへど蛍がとんでゆく」が最初の句となる。
1673年 延宝元年 松江重頼(維舟)に入門。(*2)
1674年 延宝2年 池田宗旦の也雲軒に参加。
1678年 延宝6年 鬼貫号を使用。
1685年 貞享2年 「まことの外に俳諧なし」と喝破。学問のために大坂に出る。
1686年 貞享3年 武士を志し江戸に出る。翌年三池侯に仕える。
1689年 元禄2年 上方に帰る。
1691年 元禄4年 本多侯に仕える。翌年、狼藉をはたらいた家来を切り捨てる。
1700年 元禄13年 長男が6歳で亡くなり詠す。「土に埋て子の咲花もあることか」。
1718年 享保3年 8月「独ごと」を刊行。
1724年 享保9年 3月21日、大火で大坂天満の家が焼ける。
1733年 享保18年 薙髪して即翁と号す。
1738年 元文3年 旧暦8月2日、大坂鰻谷(大阪市中央区鰻谷)にて死去。享年78。墓所は大阪市天王寺区の鳳林寺。伊丹市の墨染寺には、長男との合葬墓がある。
*1 上島鬼貫の幼名は竹松。通称は与惣兵衛。利左衛門宗邇・藤原宗邇(ふじわらむねちか)と名乗った時期もある。晩年は平泉惣右衛門と名乗る。伊丹有数の酒造業者・上島宗春(屋号・油屋)の三男として生まれた。
*2 後に談林派に入門する。蕉門の広瀬惟然八十村路通などとも親交があり、彼らを通じ松尾芭蕉とも親交を持つ。