立体俳句を提唱した長谷川零余子
はせがわれいよし
1886年(明治19年)5月23日~1928年(昭和3年)7月27日。群馬県緑野郡鬼石町(藤岡市)出身。長谷川かな女と結婚。内藤鳴雪・高浜虚子に師事。「枯野」を創刊し主宰となり、死後は長谷川かな女が受け継いだ。著書に「近代俳句史論」(1922年)、句集「雑草」(1924年)など。
「俳句は自然観照の文学である」として、ホトトギスの絵画的俳句を脱して、「立体俳句論」を提唱した。その根底には「物は立体」という考え方があるが、ややもすると概念的に捉えて視野が歪み、平面的な世界が広がると考え、物を心眼で見るべきだと唱えている。
▶ 長谷川零余子の俳句
長谷川零余子の年譜
1886年 |
明治19年 |
5月23日、群馬県多野郡鬼石町に生まれる。(*1) |
1901年 |
明治34年 |
俳句を始める。 |
1903年 |
明治36年 |
上京して東京神田の書店に勤めながら勉学に励む。 |
1905年 |
明治38年 |
零餘子と号し、井上唖々らと七草会を結成。新聞「日本」「万朝報」に投句。 |
1906年 |
明治39年 |
ホトトギスに参加。 |
1909年 |
明治42年 |
英語の家庭教師先であった長谷川かな女と結婚し長谷川姓になる。 |
1912年 |
明治45年 |
東京大学薬学科を卒業。品川の薬品研究所の研究員になる。高浜虚子に請われてホトトギス編集部に入る。 |
1913年 |
大正2年 |
「ホトトギス」の「地方俳句界」の選者となる。 |
1914年 |
大正3年 |
「東京日日新聞」(毎日新聞)の選者となる。 |
1920年 |
大正9年 |
三井物産「三友吟社」の斡旋で「小樽新聞」の選者となる。 |
1921年 |
大正10年 |
「枯野」を創刊し主宰する。 |
1926年 |
大正15年 |
「立体俳句論」を「枯野」に掲載。 |
1928年 |
昭和3年 |
7月27日、山陰地方の旅行後に発熱し、東京の自宅で死去。42歳。 |
*1 |
本名は富田諧三。はじめは富田翠邨と号していた。 |