松木淡々

まつきたんたん

淡々流の始祖

延宝2年(1674年)~宝暦11年(1761年)11月2日。大坂西横堀の阿波屋に生まれる。通称は伝七、別号に渭北・因角・半時庵など。初め椎本才麿門に学び、元禄13年(1700年)に江戸に出て、立羽不角宝井其角に師事。
享保元年(1716年)に鷲峰山の中腹に半時庵を営み、「一句立」を導入し、京俳壇に確固たる地位を確立。伝授書を乱発して、権貴も及ばないというほどの豪華な生活をおくった。俗臭を帯びた性格ゆえに評価は低いが、その流派は淡々流・半時庵流と呼ばれ、全国に大きな影響を与えた。

門外不出の句として「梅の花こたへて曰く梅の花」を詠んだが、門人は、誰もその句意を悟ることができなかった。淡々が亡くなった後に、墓参した俳友がはじめて、「梅」が「有無」に掛かっていることに気付いたという。
辞世は「朝霜や杖で画きし富士の山」。四季に合わせて4句の辞世を用意していたと言われ、その中から「朝霜」の句が選ばれた。

▶ 松木淡々の俳句

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