俳句

立羽不角

たちばふかく

門弟千人を数える温故知新流の創始者

寛文2年(1662年)~宝暦3年7月21日(1753年8月19日)。通称は定之助。江戸(東京都)に生れる。旧姓は立羽根であるが、夢枕に現れた柿本人麻呂の求めに応じ、「たちばね」の下一字を略して、立羽姓を名乗った。別号に松月堂・虚雲斎南々舎。また、門弟が1000人を超えたことから、千翁ともいう。松永貞徳の流れを汲む岡村不卜に師事し、「牙有る物角無し」から不角と号す。

元禄16年(1703年)4月9日、不卜の十三回忌に、髪が薄く髷を結えなくなり、貴人に招かれても理由がつくようにと剃髪。その時に「けし坊主木の端でなし草の端」と詠む。
死産と間違われ、生まれてすぐに井戸に捨てられたが、わずかに声をあげたために救われたという。成人してからは書店を営み、浮世草子を書くなど貧しい境遇であったが、備角の号を持つ備前岡山藩主池田綱政に仕え、寵遇を受けた。ある時、備角が「夏の夜や長居はふかく早帰れ」と戯れの句を向けると、「蚊の歯も立たずかしこまりだこ」と付けて評判を呼び、千金の富をなした。
元禄16年(1703年)には、備角の力添えにより、法橋の地位を賜る。さらに享保15年(1730年)に法眼にまで昇った。
自派を「温故知新流」と呼んだが、他派からは「化鳥風」と呼ばれ、掛言葉・譬喩を多用する句風を揶揄する声があった。辞世は「空蝉はもとのすがたに返しけり」。

▶ 立羽不角の俳句

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