ほっくなり まつおとうせい やどのはる
松尾芭蕉、延宝7年(1679年)歳旦の句。延宝6年(1678年)に俳諧宗匠となり、独立した。この句は、俳諧宗匠として初めて迎えた新春の決意を表したものだと言われている。「桃青」は、当時の芭蕉の俳号。
▶ 松尾芭蕉の句
日本橋鮒佐店頭の句碑(東京都中央区)
「日本橋鮒佐」の店先に句碑が立っている。芭蕉は、29歳の寛文12年(1672年)に伊賀上野から上京し、延宝8年(1680年)まで、日本橋近くの小田原町(現:室町1丁目)に住んでいた。卜尺の俳号を持つ小沢太郎兵衛(門人であり大舟町名主)に間借りしていたとも、魚問屋鯉屋を営む杉山杉風の日本橋小田原町の宅に居候したとも言われている。付近は魚市場で、当時の賑いは相当なものだったらしい。
芭蕉が住んでいた場所の詳細は明らかになっていないが、ほぼ日本橋鮒佐のあたり。その鮒佐は、芭蕉没した後の文久2年(1862年)に、浅草橋で北辰一刀流剣士・佐吉が創業。1954年(昭和29年)に日本橋に進出(暖簾分け)した、佃煮の元祖とも言われる名店である。
碑面の文字は、この句が詠まれた当時の俳人住所録を編んだ尾張鳴海の庄屋・下里知足の自筆を模刻。その俳人住所録により、当時の芭蕉は卜尺に間借りしていたとされる。句碑は平成5年に日本橋鮒佐が建立。
【撮影日:2018年3月12日】
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