俳句

春風やまりを投げたき草の原

はるかぜや まりをなげたき くさのはら

春風やまりを投げたき草の原野球好きで知られ、平成14年(2002年)には野球殿堂入りをも果たした正岡子規。「まり」とは勿論、今でいう野球のボール。
この句は、明治23年(1890年)4月7日付「筆まかせ」に出てくる。前年に喀血したものの、東京大学予備門に通う頃から親しんだ「ベースボール」を、「愉快と呼ばしむる者ただ一ツあり、ベースボールなり」と言って楽しんでいた。

この日、其十(竹村鍛)・鐵山(伊藤泰)氏に誘われて、晴天の中、9時頃から板橋方面に土筆狩りに出かけている。2時半頃より、突然雷雨となったものの、王子権現を廻り、西ケ原に到ったところで再び晴れた。
土筆をとりながら「草化して胡蝶になるか豆の花」という句を詠み、片町のほとりに出た時、大きな植木屋を発見した。そこに、芝を養生する広場を見たことから「我々ボール狂にはたちまちそれが目につきて、ここにてボールを打ちたらんにはと思へり」と述べる。それに続いて詠まれたのが、「春風やまりを投げたき草の原」。

ピッチャーの役割とは、打者にボールを当てさせる役割であったというから、当時のベースボールでは、投・捕・打の中で、最も低い位置にあったであろう「投」。上記の如く、子規も芝を見て「ここにてボールを打ちたらんにはと思へり」と、打ちたい気持ちが勝る。けれどもここに「まりを投げたき」と持ってきたのは、投げることがはじまりとなるからであろう。

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上野公園の句碑(東京都台東区)

春風やまりを投げたき草の原正岡子規は、上野公園にある博物館の脇の空き地で、旧松山藩の常磐会寄宿舎の連中などを誘ってよくベースボールをしていた。明治19年(1886年)から明治23年(1890年)頃のことである。
上記「筆まかせ」の中には、明治23年3月21日午後、上野公園博物館横の空き地で、観客が多くいるなか、試合を行ったことが記されている。その時の子規はキャッチャー。
このような縁で、2006年(平成18年)7月21日に上野恩賜公園開園式典130周年を記念して、上野恩賜公園野球場に正岡子規記念球場の愛称が与えられた。それと同時に、球場の東京文化会館側に句碑も建立された。因みに、子規が「野球」の名付親であると言われることもあるが、実際には中馬庚で、明治27年(1894年)秋に使用している。
以下、句碑に添えられた説明文を記す。

正岡子規(1867~1902)俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県松山市に生まれた。名は常規(つねのり)。子規は、明治時代のはじめに日本に紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から同23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいた。
子規の随筆『筆まかせ』には、明治23年3月21日午後に上野公園博物館横で試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手であったことがわかる。子規の雅号のひとつに、幼名の升(のぼる)にちなみ「野球(の・ぼーる)」という号がある。子規は野球を俳句や短歌、また随筆、小説に描いてその普及に貢献した。ベースボールを「弄球」と訳したほか「打者」「走者」「直球」などの訳語は現在も使われている。これらの功績から平成14年に野球殿堂入りをした。
子規が明治27年から同35年に亡くなるまで住んでいた住居は、戦後再建され「子規庵」(台東区根岸2-5-11)の名で公開されている。
上野恩賜公園開園式典130周年を記念して、ここに子規の句碑を建立し、野球場に「正岡子規記念球場」の愛称が付いた。
平成18年7月 台東区・台東区教育委員会

2006年7月21日(金)午前10時からの正岡子規句碑除幕式及び正岡子規記念球場披露式では、子規の親類である正岡浩氏が始球式を行った。打者は駒澤大学野球部元監督の太田誠氏、捕手は元日本ハムファイターズの大宮龍男氏が、子規の時代の復元ユニフォームを着用して務めた。雨天のため、始球式ののち行われる予定だった野球指導は、場所が変更となった。
同日午後には、台東区役所で正岡子規記念講演が執り行われた。奈良文夫氏が「子規と中村草田男」、倉橋羊村氏が「子規について」、香取忠彦氏が「子規庵をめぐって」、正岡浩氏が「忠三郎と私と野球」、相原左義長氏「正岡子規と秋山兄弟」をテーマに講演を行っている。
なおこの句碑は、テレビアニメ「サザエさん」の平成23年春季オープニングにも登場した。
【撮影日:2019年7月15日】

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