俳句

この里は気吹戸主の風寒し

このさとは いぶきどぬしの かぜさむし

この里は気吹戸主の風寒し貞享4年(1687年)、「鹿島紀行」の旅。松尾芭蕉は、鹿島根本寺の仏頂和尚から月見に誘われた。
8月14日に江戸を発ち、布佐(現在の我孫子市にある)の漁師のところに宿をとろうとしたが、魚臭くて、たまらず夜舟を出した。月影を宿す利根川を下り、夜半に息栖の津に上陸したと思われる。「寒し」と言えば季節感が合わないような気もするが、15日は昼から雨になったというから、肌寒い風が吹き始めたのだろう。
「気吹戸主」とは、息栖神社のかつての御祭神で、禍事・罪・穢れを祓う祓戸大神の一柱。死者が向かう異界である根の国に向けて、息吹を放つ神である。

この句は「鹿島紀行」の中には入らない。存疑とされる句ではある。

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息栖神社の句碑(茨城県神栖市)

この里は気吹戸主の風寒し息栖神社境内にある「此里は氣吹戸主の風寒し」の句碑は、文政12年(1829年)、小見川梅庵・乃田笙々という、この土地の俳人によって立てられた。
碑陰に小見川梅庵の「忍潮井や月も最中の影ふたつ」、乃田笙々の「風はなを啼や千鳥の有かきり」が刻まれている。

息栖神社は、鹿島神宮・香取神宮とともに東国三社の一で、江戸時代には「下三宮参り」と称して伊勢神宮参拝後に巡拝する慣習があった。現在の御祭神は久那戸神となっているが、祓戸神を拡大解釈したものだろう。
かつては、息栖神社の前を数千隻の船が行き来したという。鹿島神宮や香取神宮ほどの賑わいはないが、古社としての風格を有する神社。今に残る社叢の騒めきに、芭蕉も耳を傾けたことだろう。

背後の説明書きには次のようにある。

俳聖といわれた松尾芭蕉が、水郷地方を訪れたのは、貞享四年(1687)八月十四日で、親友・鹿島根本寺の仏頂和尚の招きで、鹿島の月を眺めるためであった。
この旅で根本寺・鹿島神宮・潮来長勝寺と水郷地方を訪ねまわった彼は、息栖地方にも足をのばしたもののようである。この句碑は、小見川梅庵・乃田笙々といったこの地方の俳人らによって建てられたもので、その年月は不明である。
句の意味するもの
「いざなぎの尊が黄泉の国(死の国)から戻ったとき、筑紫日向の橘の小門で、身体を洗い、きたないものと汚れたもの(罪や穢れ)を、すっかりそそぎ落し、浄め流した。その流れの中から生れたのが気吹戸主(息栖神社祭神)で、清浄化・生々発展・蘇生回復の神である。」
このいわれにあやかって、この神域に身をひたしていると、身も心も洗い浄められて、何の迷いも曇りも、わだかまりもなくなり、体の中を風が吹き抜けるほど透き通って、寒くなるくらいである。といった、息栖神域の醸し出す風趣・威懐といったものを詠みあげたものであろう。
昭和六十一年三月 神栖市教育委員会

【撮影日:2016年6月27日】

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