俳句

おちついて死ねそうな草萌ゆる

おちついて しねそうな くさもゆる

おちついて死ねそうな草萌ゆる種田山頭火 の昭和15年(1940年)3月12日の「松山日記」に、

友達への消息に
伊予路の春は日にましうつくしくなります、私もこちらへ移つて来てから、おかげでしごくのんきに暮らせて、今までのやうに好んで苦しむやうな癖がだんだん矯められました。
 おちついて死ねさうな草萠ゆる

と載る。

昭和14年(1939年)10月6日に松山から打ち始めた四国遍路を、11月16日の高知で金が尽きて中断し、11月21日に松山へ帰ってきた。しばらくは道後の宿に滞在していたが、12月15日に高橋一洵の手配で、終の棲家となる一草庵に移った。その時に詠まれた「おちついて死ねそうな草枯るる」が下地になっているという。
ちなみに、同門の尾崎放哉に、「乞食に話しかける我となつて草もゆ」がある。

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一草庵の句碑(愛媛県松山市)

おちついて死ねそうな草枯るる道後の温泉街の外れに、護国神社がある。その脇にある御幸寺山への道をしばらく行くと、山頭火の終焉の場所である「一草庵」に着く。現在ある一草庵は、昭和27年に再建されたものであり、庭は常時開放され、不定期に内部公開されている。
その一草庵には4基の句碑があり、一番新しいのがこの「おちついて死ねそうな草枯るる」の句碑である。一草庵と言えば、この句をもとにした「おちついて死ねそうな草萌ゆる」である。
「おちついて死ねそうな草枯るる」の句が詠まれた昭和14年(1939年)12月15日の「四国遍路日記」に

一洵君に連れられて新居へ移って来た、御幸山麓御幸寺境内の隠宅である、高台で閑静で、家屋も土地も清らかである、山の景観も市街や山野の遠望も佳い。
京間の六畳一室四畳半一室、厨房も便所もほどよくしてある、水は前の方十間ばかりのところに汲揚ポンプがある、水質は悪くない、焚物は裏山から勝手に採るがよろしい、東々北向だから、まともに太陽が昇る(この頃は右に偏っているが)、月見には申分なかろう。
東隣は新築の護国神社、西隣は古刹龍泰寺、松山銀座へ七丁位、道後温泉へは数町。
知人としては真摯と温和とで心からいたわって下さる一洵君、物事を苦にしないで何かと庇護して下さる藤君、等々、そして君らの夫人。
すべての点に於て、私の分には過ぎたる栖家である、私は感泣して、すなおにつつましく私の寝床をここにこしらえた。

と、山頭火は記している。現在では住宅地の一角となっているが、静かな場所である。

句碑は、平成6年(1994年)10月10日に、鉢の子会(1998年、まつやま山頭火の会へ合流)によって建立された。横にある説明書きには、以下のようにあった。

一洵君に
おちついて死ねさうな草枯るる 山頭火
 昭和14(1939)年12月15日、高橋一洵が奔走して見つけたこの草庵に気に入った山頭火は、日記に「私には分に過ぎたる栖家である」と記し、その労苦に感謝し一洵にこの句を呈した。「死ぬることは生まれることよりもむつかしいと、老来しみじみ感じ」た山頭火が、一草庵を終の住処とした境地である。
翌年3月には、改めて「おちついて死ねさうな草萌ゆる」と詠んでいる。
平成6年10月10日建立

【撮影日:2019年12月31日】

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