たねださんとうか
自由律俳句で放浪の俳人としても有名な種田山頭火
1882年(明治15年)12月3日~1940年(昭和15年)10月11日。山口県佐波郡西佐波令村(防府市)の大地主の家に生まれる。本名は種田正一(たねだ しょういち)。別号に「田螺公」。熊本市の曹洞宗報恩寺で出家し、耕畝(こうほ)と改名。荻原井泉水に師事。自由律俳句の代表的俳人。行乞の中に句を詠み、「昭和の芭蕉」と評されることも。
10歳の時に、母が井戸に身を投げて自殺。以降の人生に翳をおとす。その後、父とともに開業した酒造に失敗し、破産して妻子とともに熊本に移る(酒蔵を買い取った金光酒造は現在、「山頭火」の銘の日本酒を醸造している)。以降放浪を重ね、最後は大山澄太らの助力により、松山に「一草庵」を結び、心臓麻痺のため望みどおりにコロリ往生。
有名な俳句に「分け入つても分け入つても青い山」「鉄鉢の中にも霰」など。
▶ 種田山頭火の俳句
▶ 種田山頭火の酒の俳句
▶ 種田山頭火の句碑
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1882年 | 明治15年 | 12月3日に長男として生まれる。(*1) |
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1892年 | 明治25年 | 3月6日、母フサが自宅の井戸に投身自殺。(*2) |
1901年 | 明治34年 | 上京し、私立東京専門学校高等予科(早稲田)に入学。 |
1902年 | 明治35年 | 早稲田大学文学科に入学。 |
1904年 | 明治37年 | 早稲田大学を、神経衰弱のため退学。種田家の屋敷の一部が売られる。 |
1906年 | 明治39年 | 父が大道村(防府市)の酒造を買収し、一家で移り住む。(*3) |
1909年 | 明治42年 | 8月20日サキノと結婚。 |
1910年 | 明治43年 | 8月3日長男生まれる。 |
1911年 | 明治44年 | 田螺公の俳号で弥生吟社の句会に参加。 |
1913年 | 大正2年 | 井泉水に師事し、「層雲」3月号に初入選。5月に山頭火の俳号を使い始める。個人雑誌「郷土」創刊主宰。朝鮮旅行。(*4) |
1915年 | 大正4年 | 大正の大腐造と呼ばれる日本酒の腐敗問題に直面し、酒造場が経営危機となる。 |
1916年 | 大正5年 | 3月に「層雲」の俳句選者となる。4月に種田家が破産し、父が行方不明に。文芸繋がりで、妻子を連れて熊本に移り住む。5月に熊本市内に古書店「雅楽多」を開業。(*5) |
1919年 | 大正8年 | 10月上京。東京市セメント試験場でアルバイト。 |
1920年 | 大正9年 | 離婚。11月、臨時雇いで一ツ橋図書館に勤務。 |
1921年 | 大正10年 | 5月8日、父死去。6月、東京市事務員となる。 |
1922年 | 大正11年 | 神経衰弱のため東京市事務員を退職。 |
1923年 | 大正12年 | 関東大震災の避難中、憲兵に捕まり巣鴨刑務所に留置される。9月末、熊本に帰る。 |
1924年 | 大正13年 | 熊本市内で泥酔し、路面電車を止め、報恩禅寺に預けられ寺男となった。 |
1925年 | 大正14年 | 2月に報恩禅寺の望月義庵を導師として出家得度。耕畝と改名。3月、植木町の観音堂の堂守となる。 |
1926年 | 大正15年 | 4月10日より観音堂を離れ放浪の旅に出る。そのはじめに「分け入つても分け入つても青い山」と詠む。(*6) |
1930年 | 昭和5年 | 熊本に帰り、妻が営む「雅楽多」に滞在。さらに九州を放浪。 |
1931年 | 昭和6年 | 句友の支援で個人誌「三八九」を発行。泥酔のため留置所に拘置。 |
1932年 | 昭和7年 | 九州・山口を放浪。第一句集「鉢の子」刊行。9月20日、支援により「其中庵」を結ぶ。 |
1934年 | 昭和9年 | 長野に行脚。 |
1935年 | 昭和10年 | 8月6日、自殺未遂。12月6日、死場所を求めて放浪の旅に出る。 |
1937年 | 昭和12年 | 一旦熊本に戻り、下関で就職したが続かず、11月、泥酔のうえ無銭飲食で捕まる。 |
1938年 | 昭和13年 | 其中庵が崩れ、湯田温泉に「風来居」を結ぶ。 |
1939年 | 昭和14年 | 春、長野に旅し、井上井月の墓参を果たす。10月、松山に入り野村朱鱗洞の墓参りのあと四国巡礼。高知で巡礼を断念して松山に入り、高橋一洵・大山澄太らの世話で「一草庵」を結ぶ。 |
1940年 | 昭和15年 | 中国・四国・九州へ最後の旅。一草庵に帰り、10月10日に酩酊して翌10月11日朝、心臓麻痺で死去。58歳。(*8) |
*1 | 種田山頭火には、姉・妹・弟・異母妹(3人)がいた。母亡きあとは祖母に育てられる。 |
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*2 | 父の竹治郎が政治運動に手を出したことが原因だと言われている。 |
*3 | 翌年「種田酒造場」を開業。さらに翌年、それまでの家屋敷を全て売却。 |
*4 | 同時に短歌同人誌「四十女の恋」にも参加。井泉水には、翌年10月、一夜句会で初めて対面する。 |
*5 | この年、弟が養子先から離縁され、2年後自殺。さらに翌年、実家に帰っていた祖母も死去。 |
*6 | 山口・広島(1926年)山陰(1927年)四国巡礼・小豆島・山陽山陰(1928年)山陽・九州(1929年)。 |
*7 | 岡山・広島・関西・伊勢神宮・伊豆・東京・山梨・長野・新潟・山形・仙台・平泉・福井永平寺(1936年)。 |
*8 | 山頭火最後の日記は、死の3日前であり、一草庵に隣接する護国神社に参拝。一草庵日記には「更けて書かうとするに今日は殊に手がふるへる」とあるから、既に死の兆候はあったのだろう。この年の秋には「いつ死ぬる木の実は播いておく」とも詠んでいる。最後となった句は「ぶすりと音たたて虫は焼け死んだ」「焼かれて死ぬる虫のにほひのかんばしく」「打つよりをはる虫のいのちのもろい風」。辞世は「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」と言われている。 |
種田山頭火の関連施設
▶ 山頭火ふるさと館
山頭火の生誕地である山口県防府市にある種田山頭火の資料館。貴重な資料が展示されており、山頭火の生涯も良く分かるように紹介されている。また、関連書籍やオリジナルグッズも販売されている。
▶ 一草庵
愛媛県松山市が管理する、種田山頭火の終焉の場所。敷地内は常に解放されており、句碑や案内板などがある。庵の内部は、年に2回ほど日時を決めて公開されている。