「季語」の生みの親として知られる大須賀乙字
おおすがおつじ
1881年(明治14年)7月29日~1920年(大正9年)1月20日。福島県相馬郡中村町(相馬市)出身。本名は績(いさお)。河東碧梧桐に師事。臼田亞浪と俳誌「石楠」を発刊。明治41年(1908年)12月号の雑誌「アカネ」の句評欄に「季語」を初めて用いた俳人で、新傾向俳句の旗手としても知られたが、後に新傾向俳句とは距離を置く。
かつて同朋としてあった荻原井泉水の、季題無用論に対して大須賀乙字は、「季題無用論などは其故に現代の文化のうは波に漂へる、物質主義的享楽的空想的技巧的生活を遂へる者の寝言であつて、成立の歴史を知らぬはやがて自然の要求を離れる所以で、ここに転がつて居る形式を訳もなく拾つたに過ぎないか、死骸を負うて走る者だ」と言い放っている。
学者の家系に生まれ、東京音楽学校(東京芸術大学)の教授に就任。
碧梧桐主宰の「海紅」に参加するが、大正4年(1915年)5月12日の句会における海紅堂事件により離脱。中塚一碧楼下の山口葉吉との、句評を巡っての対立が原因だったと言われる。
その後、臼田亞浪と俳誌「石楠」を発刊するも、亞浪とも決別。飯田蛇笏らに、傲慢な人物であったとの評もある。
インフルエンザ(スペイン風邪)をこじらせ、自宅で死去。最後の句は「干足袋の日南に氷る寒さかな」。
▶ 大須賀乙字の俳句
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1881年 | 明治14年 | 7月29日、漢学者で漢詩人の大須賀筠軒を父として生まれる。(*1) |
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1904年 | 明治37年 | 東京帝国大学文学部国文科に入学し、河東碧梧桐に師事。(*2) |
1905年 | 明治38年 | 「東京日日新聞」の俳句選者となる。 |
1908年 | 明治41年 | 雑誌「アカネ」の俳句欄を担当。「俳句界の新傾向」で注目を集める。 |
1909年 | 明治42年 | 東京帝国大学文学部国文科卒業を卒業。(*3) |
1910年 | 明治43年 | 結婚。 |
1911年 | 明治44年 | 荻原井泉水の「層雲」の創刊に河東碧梧桐とともに参加。 |
1912年 | 明治45年 | 「層雲」の選者を辞す。 |
1915年 | 大正4年 | 5月、海紅堂事件に端を発し、河東碧梧桐の「海紅」を離脱。臼田亞浪と「石楠」を創刊。 |
1919年 | 大正8年 | 「石楠」を離脱。 |
1920年 | 大正9年 | 1月20日、スペインかぜに罹り東京市小石川区高台老松町の自宅で死去。40歳。 |
*1 | 大須賀乙字の本名は績(いさお)。長子。中学時代から俳句に親しみ、「国民新聞」「日本」などに投稿していた。 |
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*2 | 福島尋常中学校・宮城県第一中学校・第二高等学校(東北大学)を経る。 |
*3 | 卒業後、曹洞宗大学・麹町高等女学校・東京音楽学校で教鞭をとる。 |