さみだれの ふりのこしてや ひかりどう
不変の記憶を詠みこんだ五月雨の名句
元禄2年(1689年)松尾芭蕉「おくのほそ道」の旅。5月12日(新暦6月28日)に一関に宿泊した芭蕉は、5月13日(新暦6月29日)に平泉観光をして連泊となる。前日の激しい雨も上がり、高館から中尊寺へと足をのばし、別当の案内で覆堂の中にある金色堂(光堂)を見た。
この光堂の芭蕉句の解釈の仕方は様々であるが、直訳すれば「五月雨が降る中にも、光堂は濡れることなく光り輝いているよ」といった意味になる。
曾良本によると、初案は「五月雨や年々降て五百たび」と、訪れた当時、奥州藤原氏が滅んで丁度500年となることを意味した句であった。芭蕉が表現したかったものは、時の流れの中に佇む記憶(歴史)だったと考えられるが、「五月雨の降り残してや光堂」に到りて、腐食に導く五月雨と、時の流れを感じさせない光堂(金色堂)の輝きの対比が美しく、意味するものに深みが生じたと見る事ができるだろう。あたかも、五月雨さえも輝き出すような名句である。
以下、「おくのほそ道 平泉」より。
兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。
五月雨の降のこしてや光堂
▶ 松尾芭蕉の俳句
中尊寺金色堂の句碑(岩手県西磐井郡平泉町)
芭蕉が詠んだ中尊寺金色堂は、奥州藤原氏初代藤原清衡が天治元年(1124年)に建立したもの。当初は屋外に建っていたが、正応元年(1288年)に、金色堂を風雨から守るように覆堂が建設された。現在の覆堂は、昭和40年(1965年)に建設された鉄筋コンクリート製のものであるが、芭蕉が案内されたであろう南北朝時代の覆堂も、近くに残されている。その旧覆堂前には、芭蕉像と、おくのほそ道の「平泉」を刻んだ「おくのほそ道碑」がある。
画像の句碑「五月雨の降残してや光堂」は、金色堂の脇にあり、並んで立つ立札に、「延享三年(一七四六)十月十二日 仙台白英門人山目山笑庵連中建碑」とあった。揮毫は、平泉の俳人で中尊寺の僧・素鳥と伝わる。
【撮影日:2018年9月29日】
中尊寺の見どころ
国内12番目の世界遺産に指定された「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の中核となる中尊寺は、平安時代はじめに活躍した第3代天台座主・円仁が開山した天台宗東北大本山の寺院で、奥州三十三観音番外札所でもある。山号は関山(かんざん)、本尊は釈迦如来。奥州藤原氏三代ゆかりの寺である。
【金色堂】
この五月雨の句に詠まれた光堂のことで、国宝に指定されている。平安時代後期建立の総金箔貼りの仏堂で、1965年建設の鉄筋コンクリート製の覆堂の中にある。須弥壇内には、藤原清衡・基衡・秀衡の奥州藤原氏三代の遺体と、最後の当主・泰衡の首級が納められている。阿弥陀如来を中心に11躯の仏像が安置されている。
【金色堂旧覆堂】
室町時代(鎌倉時代後期とも)に建てられた覆堂で、1964年に光堂から100メートルほど北西に離れた場所に移築された。芭蕉が訪れた時には、光堂はこの覆堂の中にあった。重要文化財に指定されている。
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