愚陀仏の俳号を持つ日本を代表する文豪
なつめそうせき
1867年2月9日(慶応3年1月5日)~1916年(大正5年)12月9日。江戸の名主の家(東京都新宿区)に生まれた。本名は夏目金之助。俳号は愚陀仏(ぐだぶつ)。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を始める。「漱石」は晋書の「漱石枕流」から子規が使っていた号で、それを譲り受けた。
1905年(明治38年)、高浜虚子の勧めでノイローゼを和らげるために書いた「吾輩は猫である」を、ホトトギスに発表。以降、「坊ちゃん」「こころ」などを執筆。1910年頃には胃潰瘍を患い、晩年には糖尿病やリウマチも発症。
「明暗」執筆中の1916年(大正5年)12月9日、胃潰瘍のために体内出血を起こし「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」と言って絶命。大正5年9月2日付の芥川龍之介宛の手紙に記された「秋立つや一巻の書の読み残し」が、漱石最後の俳句となった。死の直前の11月26日、胃潰瘍に倒れた漱石が妻に、「苦しみながら辞世を考えていた」と言っているから、伝わっていない辞世句というものが出てくるかもしれない。
▶ 夏目漱石の俳句
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1867年 | 慶応3年 | 2月9日(旧暦1月5日)江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)に生まれる。(*1) |
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1883年 | 明治16年 | 大学予備門受験のために松山中学を退学し、東京へ。 |
1884年 | 明治17年 | 東京大学予備門予科入学。 |
1889年 | 明治22年 | 1月に正岡子規との親交が始まり、子規の「七草集」の批評で初めて「漱石」の筆名を用いる。 |
1890年 | 明治23年 | 帝国大学文科大学英文科入学。 |
1893年 | 明治26年 | 高等師範学校の英語教師となる。 |
1895年 | 明治28年 | 松山中学に赴任。 |
1896年 | 明治29年 | 熊本県の第五高等学校講師となる。貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚。 |
1898年 | 明治31年 | 俳句結社紫溟吟社の主宰になる。 |
1900年 | 明治33年 | イギリスに留学。 |
1903年 | 明治36年 | 第一高等学校講師。東京帝国大学文科大学講師を兼任。 |
1904年 | 明治37年 | 明治大学講師を兼任。 |
1905年 | 明治38年 | 1月から「ホトトギス」で「吾輩は猫である」の掲載がはじまった。 |
1910年 | 明治43年 | 6月、胃潰瘍のため入院。8月、療養のため修善寺温泉に移るも一時危篤状態に。 |
1916年 | 大正5年 | 12月9日、胃潰瘍により死去。50歳。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園。戒名は文献院古道漱石居士。 |
*1 | 父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれる。本名、夏目金之助。 |
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