うしいくや びしゃもんざかの あきのくれ
正岡子規の句。明治28年(1895年)9月21日午後。
「散策集」に、「稍曇りたる空の雨にもならで、愛松、碌堂、梅屋三子に促され病院下を通りぬけ、御幸寺山の麓にて引返し来る。往復途上口占」の前書きとともに、「秋の城山は赤松ばかり哉」「牛行くや毘沙門阪の秋の暮」「社壇百級秋の空へと登る人」。
この時、従軍記者として遼東半島に渡って帰国の船中で喀血し、一時松山に帰郷していた。病中ではあるが、前日には石手寺に参拝するなど、かなりの距離を歩いている。この日も御幸寺山麓までとあるから、愚陀仏庵から往復で4kmほど歩いている。
ただ、前日に引いた神籤が「凶」だったとの記述や、前出3句に続く常楽寺での句に「狸死に狐留守なり秋の風」があるなど、心は晴れない。
毘沙門阪とは、松山城の東麓・ロープウェイ街を上り詰めたところにあったとされる坂。そこには毘沙門天が祀られていたとされる。毘沙門天は、戦と勝負の守。そこへと続く坂をのぼり行くのは、身体重たい生物である。季節は秋の暮れ。
▶ 正岡子規の句
東雲神社石段下の句碑(愛媛県松山市)
東雲神社へと続く石段下の信号を渡ったところに句碑がある。かつて、この辺りに毘沙門堂があったという。今では、松山市一番の繁華街大街道へと続くロープウェイ街の北端にあたり、多くの車が行き交っている。ただ、西隣には東雲神社があり、松山城へと続く深い森が押し寄せている。
碑文は、子規の遺稿を拡大。句碑の隣に掲げられた説明文は以下。
牛行くや毘沙門阪の秋の暮
正岡子規(一八六七~一九〇二 慶応三年~明治三五年
漱石の借寓「愚陀佛庵」で病後療養中の子規が、明治二八(一八九五)年九月二一日土曜日の午後、中村愛松(松山高等小学校長)、柳原極堂、大島梅屋(同校教員)の三人の松風会員に誘われるまま、病院下(今の東雲学園下)から、毘沙門坂、六角堂、千秋寺、練兵場、杉谷町と散策したときに詠んだ二四句中の二句目。
ここは城の鬼門(東北)に当たるため、城の鎮めとして、昔、毘沙門天が祀ってあったので毘沙門阪の名がある。
子規「散策集」所載。
松山市教育委員会
「俳句の里 松山」
【撮影日:2019年1月3日】
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