柿主や梢はちかきあらし山

かきぬしや こずえはちかき あらしやま

柿主や梢はちかきあらし山の俳句猿蓑(向井去来・野沢凡兆編1691年)に「自題落柿舎」の前書きで収録された向井去来の句。「風俗文選」(1706年)に「落柿舎記」があり、1689年(元禄2年)頃の話として、去来が営んだ落柿舎の由来が書かれているが、その最後に載せられた句でもある。

【落柿舎記】
嵯峨にひとつのふる家侍る。そのほとりに柿の木四十本あり。五とせ六とせ経ぬれど。このみも持来らず。代がゆるわざもきかねば。もし雨風に落されなば。王祥が志にもはぢよ。若鳶烏にとられなば。天の帝のめぐみにももれなむと。屋敷もる人を。常はいどみのゝしりけり。ことし八月の末。かしこにいたりぬ。折ふしみやこより商人の来り。立木にかい求めむと。一貫文さし出し悦びかへりぬ。予は猶そこにとゞまりけるに。ころころと屋根はしる音。ひしひしと庭につぶるゝ聲。よすがら落もやまず。明れば商人の見舞来たり。梢つくづくと打詠め。我むかふ髮の比より。白髮生るまで。此事を業とし侍れど。かくばかり落ぬる柿を見ず。きのふの値。かへしくれたびてむやと佗。いと便なければ。ゆるしやりぬ。此者のかへりに。友どちの許へ消息送るとて。みづから落柿舎の去來と書はじめけり。
  柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山

庭に40本あった柿の木の実を、都の商人が一貫文で買って行ったが、夜中のうちに落ちてしまって、翌朝来た商人が金を返してくれと詫びを入れたので返したと。それをもとにして落柿舎と名付けたとある。そして、付近の嵐山に嵐を掛けて句を詠んだ。
この句に言う「柿主」とは落柿舎庵主の去来ではなく、都の商人。商人が帰った後に句作されたであろうが、商人には「嵐山が近いのだから仕方ない」と言いたかったであろう。


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嵯峨野の落柿舎にある句碑(京都市右京区)

柿主や梢はちかきあらし山の俳句貞享2年(1685年)ころから向井去来が別荘とした落柿舎は、松尾芭蕉も3度滞在し、「嵯峨日記」を記した場所でもある。現在の庵は、明和7年(1770年)に再建されたものであり、庭には柿木が1本植えられている。落柿舎記にいう40本もの柿木はないが、訪れた年末まで多くの実が残っており、冬の雨に打たれて輝いていた。
落柿舎には、去来の句碑をはじめ13もの石碑が点在している。また、100メートルほど北に行った西行井戸の近くには去来墓もある。
落柿舎の内部に立ち入る事は出来ないが、外から覗き込むことができる。受付で頂いたパンフレットに、句碑の説明文があった。

柿主や梢はちかきあらし山
安永元年(一七七二)井上重厚が建立、洛中第一に古いとされる句碑である。重厚は、芭蕉の遺徳顕彰に生涯をささげた蝶夢の門人であり、荒廃していた落柿舎を再興した二世庵主。尚、芭蕉翁の墓がある義仲寺・無名庵の庵主も兼ねた。

【撮影日:2019年12月30日】

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