はやのはじん
夜半亭一世で与謝蕪村の師。
延宝4年(1676年)~寛保2年6月6日(1742年7月7日)。下野国那須郡烏山(栃木県那須烏山市)出身。名は忠義、通称は甚助。夜半亭宋阿(やはんていそうあ)として知られる。宝井其角・服部嵐雪に師事。与謝蕪村の師。
9歳で江戸に出て俳諧を志し、はじめは竹雨(ちくう)と号す。元禄2年(1689年)に、松尾芭蕉の「おくのほそ道」の足跡を辿る。享保12年(1727年)から10年間、京都に滞在し、郢月泉(えいげつせん)と号す。元文2年(1737年)に、砂岡雁宕の誘いで江戸に戻り、日本橋本石町に夜半亭を構えて夜半亭宋阿と名乗った。与謝蕪村・高井几董と、三代続く夜半亭の一世である。
寛保2年(1742年)の春から口腔を病み、会話もままならない状態となり、6月に死去。西方浄土を見たものか、辞世は「こしらへて有とはしらず西の奧」。江戸で亡くなり、京都地蔵院と浅草即随寺(現在は移転)に墓がつくられた。
蕪村は追善に、その高潔な人柄を讃え、「俳諧のみちや、かならず師の句法に泥むべからず。時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとく有べし」と、俳諧の道を示してくれたと述べている。
▶ 早野巴人の俳句