広瀬惟然

ひろせいぜん

口語調俳句が特徴的な芭蕉の門弟

慶安元年(1648年)~宝永8年2月9日(1711年3月27日)。美濃国(岐阜県出身)。松尾芭蕉に師事。擬音まじりや、口語調の俳句を特徴とし、一茶に影響を及ぼす。
蕉門十哲の一人に加えられることもある。多くの奇行で知られ、「俳諧の狂者」と呼ばれることがあり、森川許六には「俳諧の賊」と呼ばれた。

芭蕉没後、その菩提を弔うために、芭蕉の発句を「風羅念仏」として唱えながら念仏踊りをして諸国行脚した。「近世畸人伝」(伴資芳1790年)に、風羅念仏をする街角で偶然再会した娘を前に、「両袖にただ何となく時雨かな」の句を残して走り去ったという。その後、他人に探索を依頼した娘のもとへ「おもたさの雪はらへともはらへとも」の句を送り、娘もまた出家したという。

▶ 広瀬惟然の俳句



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 広瀬惟然年譜
1648年 慶安元年 美濃国関(岐阜県関市)に酒造業の三男として生まれる。(*1)
1662年 寛文2年 名古屋の豪商・藤本屋に養子に入る。
1686年 貞享3年 鳥の羽風に梅花が散る姿に悟るところあって、妻子を捨てて関に戻り出家。
1688年 貞享5年 6月、松尾芭蕉が「笈の小文」の旅を終え岐阜に逗留した折、門弟となる。
1694年 元禄7年 素牛の号で「藤の実」を刊行。
1705年 宝永2年 故郷の関に帰り弁慶庵に隠棲。
1711年 宝永8年 旧暦2月9日死去。
*1 通称は源之丞。別号に、素牛・鳥落人・風羅堂・湖南人・梅花仏など。元は裕福であったが、後に極貧の中で諸国を放浪。