尾崎紅葉

おざきこうよう

秋声会を興した明治文壇の重鎮

1868年1月10日(慶応3年12月16日)~1903年(明治36年)10月30日。江戸芝中門前町(東京都港区)に生まれ、根付師の尾崎谷斎を父に持つ。本名は徳太郎。十千万堂と号す。「金色夜叉」などで知られる小説家。
硯友社を結成し、「我楽多文庫」を発刊。俳句では、1895年(明治28)10月、角田竹冷らとともに、日本派以外の新派俳人を集めて秋声会を結成し、「秋の声」「俳声」「俳藪」などを発行。正岡子規の日本派と並んで新派と称されたが、紅葉亡きあと衰退した。
1899年から体調を崩し、「金色夜叉」を読売新聞に連載中の1903年、胃癌のために数え37歳で没した。泣いている人々を見て「どいつもまずい面だ」と言ったのが最後の言葉だという。その葬列には数千人が参加したという。辞世は「死なば秋露の干ぬ間ぞ面白き」。青山墓地の紅葉の墓所にも刻まれている。

▶ 尾崎紅葉の俳句

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