くぼたまんたろう
文人俳句の代表作家
1889年(明治22年)11月7日~1963年(昭和38年)5月6日。東京市浅草区浅草田原町三丁目(東京都台東区雷門)の「久保勘」という足袋製造販売の家に生まれる。別号に暮雨・傘雨。小説家・劇作家としても知られ、俳句は岡本松浜・松根東洋城に師事。1946年に「春燈」を創刊主宰。
1963年5月6日、梅原龍三郎邸で赤貝のにぎり寿司を喉に詰まらせ、死亡。その半年前の忘年会では、「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」と詠んでいるが、辞世とされるのは、昭和36年4月3日に詠まれた「囀りや己のみ知る死への道」。病院で、癌の疑いがかけられた時のものである。
▶ 久保田万太郎の俳句
久保田万太郎年譜(5月6日 万太郎忌・傘雨忌)
1889年 |
明治22年 |
11月7日、東京府東京市浅草区浅草田原町三丁目(東京都台東区雷門)に生まれる。(*1) |
1909年 |
明治42年 |
慶應義塾大学部予科文学部入学。三田俳句会で出会った岡本松浜に俳句を師事。 |
1910年 |
明治43年 |
松浜を介して松根東洋城に俳句を師事。 |
1911年 |
明治44年 |
「三田文学」に小説「朝顔」発表。千野菊次郎の筆名で応募した戯曲「プロローグ」が「太陽」に入選。 |
1914年 |
大正3年 |
慶應義塾大学文学科を卒業。 |
1916年 |
大正5年 |
市村座に「句楽会」という句会が出来ると、傘雨の号で俳句を再開。 |
1919年 |
大正8年 |
芸妓今龍(大場京)と結婚。 |
1934年 |
昭和9年 |
発足した「いとう句会」の宗匠として招かれた。 |
1935年 |
昭和10年 |
11月、妻が睡眠薬の過剰摂取で死去。翌月、2年前に知り合った黒木はるとの間に子供ができる。 |
1937年 |
昭和12年 |
劇団文学座を結成。 |
1942年 |
昭和17年 |
菊池寛賞。 |
1943年 |
昭和18年 |
日本演劇社社長。 |
1946年 |
昭和21年 |
俳句誌「春燈」を創刊し主宰。三田きみと結婚。 |
1951年 |
昭和26年 |
4月、日本演劇協会会長。 |
1952年 |
昭和27年 |
日本文芸家協会名誉会員。 |
1957年 |
昭和32年 |
文化勲章受章。文化功労者。 |
1963年 |
昭和38年 |
5月6日、梅原龍三郎邸での宴席で赤貝のにぎり寿司を喉に詰まらせ死去。73歳。死没に際し、従三位に叙せられ、勲一等瑞宝章を贈られた。法名は顕功院殿緑窓傘雨大居士。墓所は東大赤門前の喜福寺。 |