日野草城

ひのそうじょう

新興俳句運動を主導

1901年(明治34年)7月18日~1956年(昭和31年)1月29日。日野草城は、東京市下谷区上野山下町(東京都台東区)に生まれ、幼少期は朝鮮で過ごす。本名は克修(よしのぶ)。1949年に退職するまで、保険会社に勤める。高浜虚子に師事。「旗艦」「青玄」創刊・主宰。
1933年には「京大俳句」創刊顧問のひとりとなる。エロスを主題とした10句「ミヤコホテル」発表により、1936年にホトトギスから除名されるも、1955年には虚子に許されて同人に復帰。
1949年に肺結核を患ってからは病気がちで、1956年1月29日、心臓衰弱のため死去。枕元には、鉛筆書きの薄い文字で五句が残されていた。「風立ちぬ深き睡りの息づかひ」「思ふこと多ければ咳しげく出づ」「一点が懐炉で熱し季節風」「わが詩や真夜に得てあはれなりにけり」「うしみつにわが咳き入りて妻子覚む」。

▶ 日野草城の俳句

 日野草城年譜(1月29日 草城忌・凍鶴忌・銀忌)
1901年 明治34年 7月18日、東京市下谷区上野山下町(東京都台東区上野)に生まれる。(*1)
1905年 明治38年 朝鮮に移住。
1919年 大正8年 第三高等学校に「神陵俳句会(京大三高俳句会・京鹿子俳句会)」を創設。
1921年 大正10年 ホトトギス初巻頭。
1924年 大正13年 京都帝国大学法学部卒業。
1928年 昭和3年 馬酔木同人。
1929年 昭和4年 ホトトギス同人。
1933年 昭和8年 「京大俳句」創刊顧問。
1934年 昭和9年 「俳句研究」4月号に「ミヤコホテル」10句を発表。
1935年 昭和10年 「走馬燈」「青嶺」「ひよどり」を統合し、「旗艦」を創刊・主宰。
1936年 昭和11年 「ミヤコホテル」が元となり、ホトトギス同人除名。
1949年 昭和24年 肺結核のため大阪住友海上火災保険株式会社を退職。「青玄」創刊、主宰。
1951年 昭和26年 緑内障により右目を失明。
1955年 昭和30年 虚子に許されて「ホトトギス」同人に復帰。
1956年 昭和31年 1月29日、心臓衰弱のため死去。大阪市天王寺区の慶伝寺に葬られる。
*1 本名は克修(よしのぶ)。