山崎宗鑑(やまざきそうかん)

「犬筑波集」を編集して戦国時代を生きた俳諧の祖

山崎宗鑑は、宗祇・宗長等との交流も深い連歌師である。ある者に「切りたくもあり切りたくもなし」に3句所望され、「ぬすびとを捕へて見ればわが子なり」「さやかなる月をかくせる花の枝」「心よき的矢の少し長いをば」と返した話は有名である。
このように、自由を求める気持ちが強く、下品とも評されてきた。また、連歌師でありながらも、連歌では宗祇に敵わぬと感じ、俳諧にひかれていった。そのことで、嘲笑を受けることもあった。しかし、「かしましや此の里過ぎよ時鳥 都のうつけ如何に聞くらむ」と涼しく返し、後に談林俳諧に大きな影響を与える「犬筑波集」(1524年?)を撰した。
芭蕉もその気風を慕い、山崎の宗鑑遺跡を訪ねて「有難き姿拝まんかきつばた」の句をのこしている。


寛正6年(1465年)~天文23年10月2日(1554年10月28日)。近江国栗太郡志那村(草津市)出身。山崎宗鑑は、荒木田守武とともに、俳諧の祖とも称される連歌師。
名は志那弥三郎範重。室町幕府9代将軍足利義尚に仕え、一休禅師とも親しくした。延徳元年(1489年)に、六角高頼との争いの中で義尚が没したことにより出家し、摂津国尼崎に住む。その後、山城国山崎に「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。享禄元年(1528年)に讃岐国の興昌寺に移り「一夜庵」を結び、そこで癰(よう)を病んで生涯を終えた。辞世は「宗鑑は何処へと人の問ふならば ちとようありてあの世へといへ」と、死に際にさえ、自らの病を掛詞にするほどの洒落者だった。

▶ 山崎宗鑑の俳句



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 山崎宗鑑の年譜(陰暦10月2日 宗鑑忌)
1465年 寛正6年 近江国栗太郡志那村に生まれる。(*1)
1487年 長享元年 足利義尚に仕え、六角高頼征討に戦功を挙げる。
1489年 延徳元年 足利義尚が鈎の陣で没し、無常を感じて出家し尼ケ崎に移る。この頃、一休禅師と交わり、宗鑑と称するようになる。(*2)
1528年 享禄元年 讃岐国の興昌寺に「一夜庵」を結ぶ。
1554年 天文23年 10月2日死去。享年八十九。
*1 佐々木義清の裔で、名は志那弥三郎範重。
*2 1481年に死去した一休宗純の年譜と符合しない。山崎宗鑑は、一休禅師の死後、山崎に居を移したという。一説では、一休を慕い、山崎に居を移し、同じような簡素な生活を始めたとも言われる。