新興俳句運動の中心的俳人
みずはらしゅうおうし
1892年(明治25年)10月9日~1981年(昭和56年)7月17日。東京市神田区(東京都千代田区神田猿楽町)の病院の家庭に生まれる。本名は水原豊。松根東洋城・高浜虚子に師事。短歌は窪田空穂に師事。
1929年に「ホトトギス」同人となり、山口誓子・阿波野青畝・高野素十ともに「ホトトギスの4S」と呼ばれる。しかし、秋桜子の主観写生に対する虚子の低評価を受けて次第にホトトギスから離れ、「馬酔木」で反論。新興俳句運動の流れを起こした。
1981年7月17日、急性心不全のため東京の自宅で死去。その年の「馬酔木」8月号に掲載された「紫陽花や水辺の夕餉早きかな」「紫陽花や鱸用意の生簀得て」「飛魚の翔けて人よふ伊豆の船」が遺作。「水辺の夕餉」の句は、切字を2つ含む「やかな俳句」として、しばらく話題になった。
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1892年 | 明治25年 | 10月9日東京都千代田区神田猿楽町生まれる。(*1) |
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1918年 | 大正7年 | 東京帝国大学医学部卒業。高浜虚子の「進むべき俳句の道」を読んで俳句に興味を持つ。 |
1919年 | 大正8年 | 医学部出身者からなる「木の芽会」参加。静華の号で俳句を作る。「渋柿」に投句し松根東洋城に師事。 |
1920年 | 大正9年 | 短歌を窪田空穂に師事。 |
1921年 | 大正10年 | 「ホトトギス」の例会に出席し、虚子から直接の指導を受ける。 |
1922年 | 大正11年 | 富安風生、山口誓子、山口青邨らと東大俳句会を再興。佐々木綾華主宰「破魔弓」同人。 |
1924年 | 大正13年 | 「ホトトギス」課題選者に就任。 |
1928年 | 昭和3年 | 提案して「破魔弓」を「馬酔木」に改題。昭和医学専門学校の初代産婦人科学教授に就任。(*2) |
1929年 | 昭和4年 | 「馬酔木」主宰。山口青邨の講演で触れられ、山口誓子、阿波野青畝、高野素十らとともに「ホトトギスの4S」と言われる。 |
1931年 | 昭和6年 | 虚子の客観写生論を自然模倣主義として批判、「ホトトギス」を離脱。新興俳句運動の流れを起こす。 |
1955年 | 昭和30年 | 医業を退き俳句に専念。 |
1962年 | 昭和37年 | 俳人協会会長に就任。 |
1964年 | 昭和39年 | 日本芸術院賞受賞。 |
1966年 | 昭和41年 | 日本芸術院会員。 |
1967年 | 昭和42年 | 勲三等瑞宝章。 |
1981年 | 昭和56年 | 7月17日、急性心不全のため杉並区西荻南の自宅で死去。88歳。墓は東京都豊島区の都営染井霊園。 |
*1 | 産婦人科を経営する病院の家庭に、長男として生まれる。本名は水原豊。 |
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*2 | 昭和医学専門学校(現・昭和大学)には1941年まで在籍し、宮内省侍医寮御用係も務めた。 |
水原秋桜子は、松根東洋城、高浜虚子に師事。「ホトトギス」に在籍するも離反し、反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動のきっかけを作った。「馬酔木」主宰。第2代俳人協会会長。